ログイン
ユーザー名:
パスワード:

パスワード紛失 | 新規登録
はじめての方へ
メインメニュー
事務局

ファックス
 042-748-1959
 JWTC(中澤啓介)
郵便振替
  00180-0-190061 
 加入者名:JWTC
問い合わせ:事務局 
 080-2089-4226

アクセスカウンタ
今日 : 484484484
昨日 : 5947594759475947
総計 : 1166850116685011668501166850116685011668501166850
平均 : 394394394
FEBC

(2014年12月20日放送)
特別オンエア中!
体験談『私が本当に捕われていたのは、エホバの証人ではなく…』

トップ  >  村上 春樹 【1Q84を読んで】  中澤啓介

村上 春樹 【1Q84を読んで】

2009年7月22日
中澤啓介

 JWTCのテープ受講生の久保田さんと館山さんから、村上春樹の小説『1Q84』に関する質問が寄せられた。主人公の一人青豆という女性がエホバの証人の家庭で育てられたことと、この小説がカルト教団をめぐって展開されていることについてコメントしてほしい。また、この小説をどう読んだらよいか、小説の中に出てくるリトル・ピープルとは何者なのか、という質問である。
2週間前、7月1日のJWTCのクラスのことである。
今日は、この質問にお答えする。
たぶん私のこの答えはきわめて主観的なものであるので、今後皆さんとご一緒に議論を発展させることができればと思う。

機ゾ説『1Q84』の出版をめぐって

 村上春樹の小説『1Q84』は、今年の5月30日、いっせいに発売された。事前に内容をいっさい公表しないという出版社の販売戦略が功を奏したこともあって、発売と同時に話題沸騰、一週間で100万部、六週間で200万部、このまま行くと今年中には500万部は売れるであろうと言われている。NHK初め各種の新聞など多くのマスコミが取り上げ、出版界久々の話題作と騒がれている。
近々、『村上春樹の「1Q84」を読み解く』(村上春樹研究会、データハウス)とか、『村上春樹「1Q84」をどう読むか』(35人の論客たちによる、河出書房新社)などの専門的な研究書も出版されるようだ。しばらくはこの小説から目が離せない。

 著者村上春樹については、ここで改めて述べる必要はないであろう。
30冊に及ぶ小説を次々と世に出してきたベストセラー作家。毎年ノーベル文学賞の最有力候補として名の挙がる、最高峰に立つ現代日本の誇る小説家の一人である。簡潔明瞭な文体や独特のファンタジーの世界を織り交ぜながらの物語手法は、多くの村上ファンを獲得している。文壇では、彼に手厳しい人々も少なくはないが、高く評価する声の方が圧倒的に強い。村上自身は他人の評論はいっさい読まず、文壇の風評など全く意に介さないと言われている。といっても、今日までたくさんの文学賞を受賞し、ミリオンセラーの著者であるのだから、そういうイメージはどこかでつくられたもののような気もするが。

 今年2月、村上はエルサレム賞を受賞することになり、イスラエルに赴いた。初め周囲は、彼がイスラエルに行くことを強く反対した。その種の受賞は、結局のところ、イスラエルによるガザ地区侵攻を正当化し、それに加担することになるわけだ。しかし村上はその反対を押し切り、授賞式で「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時私は、常に卵の側に立つ」とスピーチした。壁とはイスラエルの爆撃機や戦車、そしてイスラエルの国家的なシステムを指す。それに対し卵とは、非武装のパレスチナ市民一人ひとりを表わす。小説家は個人がもつ尊厳性を明らかにすることを仕事としており、壁側に立つものではない、と言い切ったのである。彼のスピーチは多くの人々に感銘を与え、村上文学に一層注目させる効果があった(文芸春秋、2009年4月号参照)。

 村上は1949年生まれというから、現在60歳。早稲田大学出身で、現在はアメリカに在住。アメリカの大学などで講義をする傍ら、執筆活動に励んでいる。

供ゾ説『1Q84』の概観を見る

 では、小説『1Q84』を概観しておこう。
 『1Q84』は、2巻から成り立っている。一巻目は1984年4月から6月までの出来事、二巻目は7月から9月の事件が描かれている。
それぞれの巻は24章から構成されている。奇数章は、青豆という時代の先端を走る、スポーツジムのインストラクターをしている女性の話。偶数章は、天吾という小説家志望の予備校数学教師(兼ゴーストライター)をめぐっての話である。つまり、この二人の物語が交互に語られ、出来事がパラレルに展開されていくわけだ。
天吾という青年は、30に差しかかっているにもかかわらず、とても子供っぽいモラトリアム人間として描かれている。一方青豆は、同じ年であるにもかかわらず、弱者への共感性を身につけた芯の強い行動的な女性である。この絶妙なコントラストが読者を飽きさせず、この小説を一気に読ませてしまう。

 一見何のつながりもないように見えるこの二人は、実は小学校時代の同級生だった。しかもたった一度だけ、お互いに相手を意識し、手を握り合い、深い愛を感じ合うという経験を持つ。彼らが5年生のときのことである。
 それ以来この二人は離れ離れになり、20年の歳月が経過する。ところがこの二人が、それぞれ全く別の事情から、あるカルト教団の教祖(これは明らかにオウム真理教の麻原彰晃をモデルにしている)をめぐる事件に巻きこまれる。その結果、それぞれが別々に「1Q84」の世界に踏み込み始める。小説は、この別々に歩んでいる二人が「1Q84」の世界を通し、次第次第に近づけられ、最終的には再びめぐり合う(正確には、めぐり合いそうになる)、というところで終わる。

 話が何となく中途半端に終わっていること、一巻・二巻と呼ばれ上巻・下巻とは言われていないこと、村上のライフワークになるのではないかと推測されることなどから、巷では三巻(あるいは四巻)が出版されるのではないかとささやかれている。
 確かに、青豆は自殺してしまうのか。天吾は彼女に会うことができるのか。二人はリトル・ピープルや「1Q84」の世界から脱出できるのか。「ふかえり」はその後どういう人生を歩むことになるのか。読者の誰もが、そんな疑問を持つ。だから多くの読者は三巻を期待する。
 むろんその答えは、著者に聞いて見る以外にない。

掘ァ1Q84」というタイトルについて

 ところで村上は、この小説にどうして「1Q84」というタイトルをつけたのか。
小説『1Q84』に、「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」というタイトルの章(一巻、18章)がある。この「ビッグ・ブラザー」という言葉は、ジョージ・オーウェルが1949年に出版した小説『1984年』に登場する。この小説『1984年』は、1984年当時世界中でベストセラーとして騒がれた小説だった(二巻、140-41頁参照)。

 小説『1Q84』は、ジョージ・オーウェルの『1984年』という書物に数箇所で言及している。
例えば、次のような文章である。
 「ジョージ・オーウェルは『1984年』の中に、君もご存知のとおり、ビッグ・ブラザーという独裁者を登場させた。もちろんスターリニズムを寓話化したものだ。そしてビッグ・ブラザーという言葉は、以来ひとつの社会的アイコンとして機能するようになった。それはオーウェルの功績だ。しかしこの現実の1984年にあっては、ビッグ・ブラザーはあまりに有名になり、あまりに見え透いた存在になってしまった。もしここにビッグ・ブラザーが現れたなら、我々はその人物を指さしてこう言うだろう。『気をつけろ。あいつはビッグ・ブラザーだ!』と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」(一巻、422頁)
 さらにこの『1Q84』は、オーウェルが推測した1984年頃の社会について次のように言う。
「ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。それにあわせて言葉も作り替えられ今ある言葉も変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で、誰が味方なのかもわからなくなってくる。」(一巻、459頁)

 オーウェルは、1949年の時点で、その35年後の1984年の世界がどのようになっているかを予測した。それは、核戦争を経て、オセアニア、ユーラシア、イースタンシアの三つの超大国によって分割統治される世界である。主人公のウインストンが生きるオセアニアは、全体主義の党によって統制されるが、その党は、「ビッグ・ブラザー」という独裁者によって操られる。このビッグ・ブラザーは、スターリンがモデルになっている。しかし、オーウェルの小説では、実在するのかどうかはっきりせず、謎に包まれた存在として描かれている。

 オーウェルは、1949年から近未来を予測して小説『1984年』を書いた。村上は、2009年から見て近過去となる1984年当時を振り返りつつ、『1Q84』という小説を書いたのである。オーウェルの小説が「近未来小説」と言われるのであれば、村上のそれは「近過去小説」ということになる。

 では、その書物を「1984年」としないで、「1Q84」と名づけたのはなぜか?
1984年とは、我々がごく当たり前に生活している日常的な世界である。ところが村上が言う「1Q84」の世界は少しばかり違った世界である。ここでQとは、Questionのことで、数字の「9」ではない。「1Q84」の1と8と4は、現実の我々が経験している時系列の世界である。すると「1Q84」とは、現実の我々が日常経験している1984年の真只中で、ある不可解な出来事が介入してくるという世界なのである。

検ァ1Q84」の世界とは

 では、この「1Q84」の世界とは具体的にどのような世界なのか。
小説『1Q84』は、青豆という主人公がある男性を針で殺すためタクシーを拾い、そのタクシーが首都高で渋滞に巻き込まれる場面から始まる。彼女は、タクシーの運転手から、近くの非常階段を徒歩で降りるなら時間に間に合うかもしれないと教わり、無謀にもそれを実行する。実はこのことがきっかけとなって、それまで彼女が生きていた1984年の世界とは微妙に異なる「1Q84」の世界に迷い込む。
一方もう一人の主人公天吾もまた、雑誌編集者小松という男の勧めで、17歳の謎の少女「ふかえり」が書いた『空気さなぎ』という小説を書き直す仕事を請け負うことをきっかけに、とても奇妙な「1Q84」の世界に誘導されていく。
 青豆は、自分が踏み込んでしまった「1Q84」の世界について、こう記している。
「どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。レールのポイントが切り替わるみたいに。つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、世界そのものは既に別のものにかわってしまっている。そこでおこなわれた事実の変更は、今のところまだ限定されたものでしかない。新しい世界の大部分は、私の知っているもともとの世界からそのまま流用されている。だから生活していくぶんには特に現実的な支障は(今のところほとんど)ない。しかしそれらの『変更された部分』はおそらく先に行くにしたがって、更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。誤差は少しずつ膨らんでいく。そして場合によってはそれらの誤差は、私の取る行動の倫理性を損ない、私に致命的な過ちを犯させるかもしれない。もしそんなことになったら、それは文字通り命取りになる。 パラレル・ワールド」(一巻、195頁)
 更に別の箇所で青豆は、自分が「1Q84」の世界に馴染み、そのルールに適応できるよう努力しなければならないと告白している。
 「好むが好むまいが、私は今この『1Q84年』に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は、1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった。私はその疑問符つきの世界のあり方にできるだけ迅速に適応しなくてはならない。新しい森に放たれた動物と同じだ。自分の身を護り、生き延びていくためには、その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。」(一巻、202頁)

 この新しい「1Q84」の世界は、現に我々が経験している世界とは全く別に存在する、無関係な世界ではない。この世界でありながら、この世界とは違う力が働き、違う法則で動いている世界なのである。それは、リトル・ピープルが介在する世界であり、黄色と緑色の二つの月が登場する不可解な世界なのである(一巻、352頁)。
 本書の冒頭には、「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」という言葉が繰り返されている(一巻、23、27頁)。それは、青豆がこれから経験する「1Q84」の世界が、これまでと違った現象をたくさん含んでいるように見えるけれど、これまでの世界と同一線上にある、一つの世界なのだ、ということを強調している。

 書物の一巻目の帯には、次のような言葉が記されている。「心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。」さらにその二巻目は、次のようになっている。「『こうであったかもしれない』過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、『そうではなかったかもしれない』現在の姿だ。」

 この二つの言葉に、「1Q84」の世界を理解する鍵がある。ところがここで私は、自分の読解力のなさを告白しなければならない。この2週間、これらの言葉が意味するところを考え続けてきたのだが、いまだその意味を理解できているとは言えない。一応、こんな風にまとめてみたのだが・・・。
 もし私たちが、どのようなものとしてであれ1984年の世界を描くなら、それは「こうであったかもしれない」世界を描いているに過ぎない。そしてもし私たちが、今生きている2009年について何らかの認識をもっているなら、それは「そうではなかったかもしれない」世界かもしれない。つまり、我々が我々の脳の中で描写している世界は、それが過去のものであれ、現在のものであれ、我々の心を反映した世界である。我々が描いている世界とは別の客観的な世界が存在するように見えるかもしれないが、そのようなものは実際には存在しない。そういうことを言いたいのではないかと思う。
 とすると、「1Q84」の世界こそ、本当の世界ということになるのだ。

后ゥ螢肇襦Ε圈璽廛襪箸浪燭。

 小説によれば、「1Q84」の世界はリトル・ピープルが活動している世界である。この呼称については、「ふかえり」の父、カルト教団「さきがけ」の教祖深田が、「リトル・ピープルという名前はあくまでも便宜的なものに過ぎない。当時まだ幼かったわたしの娘が彼らを『小さな人たち』と呼んだ。彼女が彼らを連れてきた。わたしがその名前を『リトル・ピープル』に変えた。その方が言い易かったからだ」(二巻、242頁)と解説している。
 では、この「リトル・ピープル」とは何者なのだろう。
これは、本書最大の謎である。まず、リトル・ピープルは実在するのか。この小説において中心的な役割を果たし、リトル・ピープルの介在者である「ふかえり」は、天吾と次のような会話をしている。
 「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女は静かな声で言った。
 「本当にいる?」
ふかえりはしばらく間を置いた。それから言った。
 「あなたやわたしとおなじ」
 「僕や君と同じように」と天吾は反復した。
 「みようとおもえばあなたにもみえる」
ふかえりの簡潔な語法には、不思議な説得力があった。(一巻、97頁)

 この「リトル・ピープル」という存在は、オーウェルが「ビッグ・ブラザー」と呼んだ外的な支配者と対極に位置する。我々の内面に宿り、「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在である。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」姿を現し、私たちを徹底的に利用する。利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていく。そういうものとして描かれている。
 「山羊はリトル・ピープルとこの世界の通路の役目を務めている。リトル・ピープルが良き人々なのか悪しき人々なのか、彼女にはわからない(天吾にももちろんわからない)。夜になるとリトル・ピープルはこの山羊の死体を通ってこちら側の世界にやってくる。そして夜が明けるとまた向こう側に帰って行く。少女はリトル・ピープルと話をすることができる。彼らは少女に、空気さなぎの作り方を教える。」(一巻、133頁)

 「ふかえり」を育てた戎野(えびすの)先生は、リトル・ピープルについて天吾に次のように話している。
「エリの描くところのリトル・ピープルが何を意味しているのか、私には分からない。彼女にもリトル・ピープルが何であるかを言葉で説明することはできない。あるいはまた、説明するつもりもないみたいだ。しかしいずれにせよ、農業コンミューン『さきがけ』が宗教団体に急激に方向転換をするにあたって、リトル・ピープルが何らかの役割を果たしたことは、どうやら確からしい。」(一巻、421頁)
 さらに、先生は続ける。
 「リトル・ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ。」(一巻、422頁)

 あるとき「ふかえり」は天吾を残して家を出て行く。次のような書置きを残して。
 「センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。」(一巻、536頁)

 「ふかえり」は、このリトル・ピープルについて、「あくまでもうけとりかたのもんだいだから」と言いながら(二巻、263頁)、知恵と力をもつが、限界もあり、森の奥に住んでいる、その数は数えられないけれど、 一人でいることはない、と解説している(二巻、267頁)。

 また、カルト教団の教祖深田は、リトル・ピープルについて次のように述べている。
 「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味で は我々の理解や定義を超えるものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された。」(二巻、276頁)

 以上のような「リトル・ピープル」について言及されている箇所をいくら読んでも、読者はリトル・ピープルの正体をはっきりつかむことはできないはずである。この小説は、随所でリトル・ピープルを不可解な存在として紹介しているのだから。
 「空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそ著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を<作家の怠慢>と受け取る読者は決して少なくないはずだ。」(二巻、123頁)
 小説の主人公天吾自身も、リトル・ピープルを把握しきれていないことを告白する。
 「彼は今では、空気さなぎやリトル・ピープルを自分自身の内部にあるものとして眺めるようになっていた。それらが何を意味するかは、天吾にも正直言ってよくわからない。しかし彼にとってそれはさして重大なことではない。その実在を受けいれるかどうか、というのが何より大きな意味を持つことだ。そして天吾にはそれらの実在性をすんなり受けいれることができた」(二巻、123-4頁)
 先の教祖深田もまた、「リトル・ピープルが何ものなのかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と述べているとおりだ(二巻、241頁)。

 リトル・ピープルにはいったい実体があるのかないのか。善なる存在なのかそれとも悪なのか。そこが一向に見えてこない。リアリティーがあり、生活感や存在感があるにもかかわらず、非現実的で、超常現象的に描かれている。具象化された存在であるかと思うと、概念的・観念的な存在にも見える。「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在と言われながらも、実態が少しも浮かび上がってこないのである。何とも不可解な存在である。

 この小説で青豆は、「もし我々が単なる遺伝子の乗り物(キャリア)に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と問う。私たちの運命を左右するのは遺伝子(的なもの)だけではなく、遺伝子を通じて活動している何者かが存在するのではないか。遺伝子の究極的な目的は永続的な自己複製にある。「母(マザ)」からクローンとしての「娘(ドウタ)」が作り出される。そのメタファーが「空気さなぎ」に他ならない。遺伝子を超え、遺伝子を通じて活動する何者か、それをリトル・ピープルと呼ぶことができるのではないか。
 このことをもう少し、現代の心理学的な表現で言い直してみる。
 私たち一人ひとりの人間は、それぞれ自分が自覚する意識の中でさまざまな活動をしている。しかしその意識の奥には、自分では説明しきれない無意識の世界がある。さらにその無意識の世界の奥をたどれば、その人の属する集団、民族、あるいは人類全体にまで及ぶ深い領域が存在する。そのような言葉では言い尽くすことのできないすべてを包含する世界を、言葉では表現しきれない何者かが動かしている。そのような世界を裏で操作している不気味な存在は、私たちに「見えざる恐怖」をもたらす。そのような全部の存在をひっくるめ、具象化したもの、それが「リトル・ピープル」ではないだろうか。
私は、そんな風に提案しておきたい。

此ゾ説『1Q84』は何を意図しているのか

 この小説はいったい何を言いたいのだろう?
読者は誰でも、そんな問いを抱きながら、小説を読み続ける。そしてほとんどの読者は、この小説を読み終わった後、途方に暮れる。いったい、著者村上春樹は、この小説『1Q84』を通して、何を言いたかったのだろう? と。
 小説は小説である。そんなに小難しいことを考えなくてもよいのかもしれない。ただ、この小説を読んで、何か一つでも感ずるものがあれば、それでよしとせよ、ということなのかもしれない。
 しかし村上は、チェーホフの言葉をかり、「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と述べている(一巻、472頁)。とすれば、この小説に何かの正解を求めることはできないにしても、村上が何かの問題提起をしようとしていると考えることは間違いではないはずだ。
 ではそれは何だろう。

 この小説には、二人の主人公にとって核になっている出来事がある。それは、天吾が十歳のとき、同級生の青豆に手を握られるという出来事である。そのとき彼は、彼女の生命の温もりを深く感じ、彼女の無言の愛を受け取る。この体験、そのときの鮮明な意識こそ、彼のその後の歩みを決定づける。
 青豆にとっても全く同じだった。その経験が、彼女のそれからの波乱万丈の人生にとって、原点として響き続けるのである。
 その出来事を記した場面を抜書きしておこう。
 「放課後の掃除が終わったあとの教室で、天吾と彼女はたまたま二人きりになっていた。他には誰もいなかった。彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣に立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。その少女は長いあいだ無言のまま彼の手を握り締めていた。とても強く、一瞬も力を緩めることなく、それから彼女はさっと手を放しスカートの裾を翻し、小走りに教室から出ていった。」(一巻275-76頁)

 二人は小学校の同級生だ。とすれば、そのとき以降、二人のあいだに何か特別なことが起こったとしても不思議ではない。ところが、その二人の間には何事も起こらず、それ以前と少しも変わらない関係が続く。にもかかわらず、その経験が、二人のその後の歩みの原点になる。
 例え一瞬の愛であっても、それが純粋で、真実なものである限り、その後の人生を運命付けてしまう。その愛は、その後20年経っても少しも衰えることなく、二人の心を支配し続ける。二人がそれぞれ別の人生を歩み、それぞれがさまざまな苛酷な不条理の世界に出くわすことがあっても、それらのすべてを乗り越えさせてしまう力をもっていたのである。
 後になって天吾は、そのときの経験をこう振り返る。
 「どうしてあの十歳のやせっぽちの少女が、いつまでたっても心から去らないのだろう、と天吾は考えた。彼女は放課後に来ておれの手を握った。そのあいだ一言も口をきかなかったそれだけのことだ。でも青豆はそのとき、彼の一部を持って行ってしまったみたいに思える。心か身体の一部を。そしてそのかわりに、彼女の心か身体の一部を、彼の中に残していった。ほんの短い時間に、そういう大事なやりとりがなされたのだ。」(二巻、94頁)
 青豆もまた同じ出来事を、こんなふうに述懐している。
 「私という存在の核心にあるのは無ではない。荒れ果てた潤いのない場所でもない。私という存在の中心にあるのは愛だ。私は変わることなく天吾という十歳の少年のことを思い続ける。彼の強さと聡明さと、優しさを思い続ける。彼はここには存在しない。しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束が破られることもない。」(二巻、113頁)

 そしてこの小説は、その最後を次のように締めくくる。
 「それが消え去ることはおそらく永遠にないだろう。天吾は東京に向かう特急列車の中でそう思った。これまでの二十年間、天吾はその少女が残していった感触の記憶とともに生きてきた。これからも同じように、この新たな温もりとともに生きていくことができるはずだ」(二巻、500頁)

 実は、青豆も天吾も不幸な幼年期を送っている。そして、この小説に登場する人物のほとんどが暴力の犠牲者である。夫の妻に対する悲惨なDV、無力な児童に対する親の虐待、過激な思想集団がもたらす暴力闘争、宗教的狂信がもたらす信者への虐待、人々を憎しみや絶望の淵に追い込む理不尽な出来事、そういった「闇」の世界が至るところを覆っている。
 暴力とか虐待は、物理的なものであれ象徴的なものであれ、人間存在の内部に大きな影を投ずる。その影が幼いときであればあるほど、大きな傷として残り、その後の人生を決定的に左右する。人がそれに立ち向かうことは容易ではない。ほとんどの人が、その種の暴力的で虚無的な「闇の力」に圧倒され、もがきながら生きることを余儀なくさせられる。

 では、そこには希望はなく、絶望しか残っていないのか。そうではない。この小説は、そのような闇に打ち勝つ別の経験を提示し、読者に希望を与えようとしている。それは、人が生きることの原点になるような愛の体験である。そのような愛は、人が直面するどんな暗闇をも打ち破り、孤独感から解放する。人に生きる希望と力を与えるものなのだ。

 もし小説『1Q84』をこのように読むなら、この小説は途方もない愛のメッセージを伝えていることになる。小説は本来、虚無的な世界をそのままにして終わるのが一般的である。その方が自然な流れであり、読者の共感も得られやすい。ところがこの小説は、その虚無的なところを越え、その向こう側にあるさらに違った新しい世界を差し出す。それを読む読者は、ひょっとすると人生もまた捨てたものではない、くじけないで生きていこうではないか、そう思わせられるのではないだろうか。

察ァ1Q84」とカルトの世界

 小説『1Q84』は、かつての全共闘運動、彼らが起こした浅間山荘事件、ヤマギシのような農業生産共同体、オウム真理教の信者や麻原彰晃など、明らかに実在の人物や事件を想定させる事柄を登場させている。主人公の一人青豆が関わった「証人会」という宗教組織については、異常なほど多くの頁をさいている(このことは後でふれる)。
普通小説家は、このような宗教がらみの人々や組織、出来事を登場させることに躊躇する。日本社会においては、政治と宗教はタブーの世界であり、売れ行きに響くことは間違いない。しかも、ちょっと扱い方を間違えると、いのちの危険をさえ覚悟せねばならない。にもかかわらず村上は、実名こそ挙げていないが、誰が読んでもそのモデルを特定できるようなかたちで、実在の人物や組織を真正面からとりあげる。
村上は、1997年3月、地下鉄サリン事件の被害者たちのインタビューをもとに、『アンダーグラウンド』という書物を著わす。以来彼は、この種の社会問題に対し、小説は何ができるのかという問いを発し続ける。その流れをこの小説『1Q84』からも読み取れる。

 村上がこの小説を、オーウェルの『1984年』を強く意識しつつ著わしたことは既に見た。そして、オーウェルがその小説の中で重要な役目を担わせた全体主義国家の独裁者ビッグ・ブラザーを取り上げ、一巻の18章に「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」という奇妙なタイトルをつけたことも。つまり村上は、オーウェルが予測した『1984年』に出てくる全体主義国家は、実際の1984年の世界では現れれなかったではないか、と皮肉ったのである。
しかし、ことはそこに留まらない。
 村上は、オーウェルの言う独裁者ビッグ・ブラザーは、1984年の時点では、その典型的な姿をカルト集団に現している、と喝破したのである。小説『1Q84』に、警察官のあゆみが、公安情報に基づきながらカルト集団「さきがけ」の実態を暴露するくだりがある。
 「『さきがけ』という教団は、現世的な価値を否定するって偉そうにうたっているわりには、ある部分、現世以上にあからさまな階級社会なんだよ。幹部と下っ端にはっきりわかれている。高い学歴と専門的な職能を持っていないと、まず幹部にはなれない。リーダーに会ってその指導を仰いだり、教団システムの中枢に関われるのは、幹部のエリート信者に限られている。あとのその他大勢のみなさんは、しかるべきお金を寄進し、きれいな空気の中でこつこつ修行をしたり、農作業に励んだり、メディテーション・ルームで瞑想に耽ったり、そういう殺菌された日々を送っているだけ。羊の群れと変わりがない。羊飼いと犬に管理され、朝には放牧地に連れて行かれ、夕方には宿舎に戻されて、という平和な毎日を送っているの。彼らは、教団内のポジショニングを向上させて、偉大なるビッグ・ブラザーに対面できる日を待ち望んでいるけど、そういう日はまず巡ってこない。だから一般の信者は教団システムの内情についてはほとんど何も知らないし、たとえ『さきがけ』を脱会しても、世間に提供できる大事な情報を持ち合わせていない。リーダーの顔を見たことすらない。」(一巻、521頁)
 ここに記されているカルト教団の実態、そして教団の教祖がビッグ・ブラザーになぞらえられているところ に注目していただきたい。お分かりいただけるであろう。村上は、オーウェルの全体主義社会をカルト教団に見出しているのである。
村上が問い続けているかのオウム真理教は、まさに1984年にスタートしたことを思えば、尚一層興味深い。

 小説『1Q84』の最後に、青豆が銃口を口の中に突っ込み、主の祈りをささげる場面が出てくる。そこに、次のような文章が登場する。
 「大事なのは、神様があなたを見ているということだ。誰もその目から逃れることはできない。
ビッグ・ブラザーは、あなたを見ている」(二巻、473頁)
ここでは明らかに、ものみの塔の神、あるいはその組織とビッグ・ブラザーが関係づけられている。青豆が幼いときから縛られている宗教団体、あるいはその神に、全体主義の独裁者ビッグ・ブラザーを見ているのである。

オーウェルの小説が「近未来小説」であるとすれば、村上のそれは「近過去小説」である。近過去小説とは、近過去から現在を見るということである。つまり、1984年にカルト教団に現れたビッグ・ブラザーは、2009年の今日では、一般社会の至るところに、ごく普通の人々の心に蔓延している、と語りかけたいのではないか。

なお村上は、この小説で、カルト=悪という単純な図式では描いていない。
確かに一方では、新興宗教「さきがけ」がただの農業コミューンから「恐ろしく閉鎖的な宗教団体」、あるいは「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」(一巻265頁)述べ、それは「きわめて悪質で危険なカルト」(一巻、433頁)であると規定する。その教祖は、宗教儀式という名のもとに何人かの少女をレイプまがいの行為に巻き込む。それは「教祖は歪んだ性的嗜好をもった変質者です。疑いの余地なく。教団や教義は、そんな個人的な欲望を隠すための便宜的な衣装に過ぎません」(一巻、437頁)と断罪される。

だが、その教祖深田は、死を前に、自分を殺しに来た青豆に対し、延々と自分のこと、宗教のこと、「1Q84」の世界について話をする。二巻の11章「均衡そのものが善なのだ」という一章全部を使ってまで。
例えば、宗教が成立する背景について、こんな解説を開陳する。
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めていない。真実というものはおおかたの場合、あなたが言っているように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めていない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しい心地良いお話しなのだ。だからこそ宗教が成立する」(第二巻234頁)。
宗教(そしてカルト教団)が成り立っていくのは、宗教を求める一般の人々のご都合主義に基づく心情なのだ、教祖はそう説くのである。しかもこの教祖は、自らの死を前提に、「しかしシステムというのはいったん形作られれば、それ自体の生命を持ち始めるものだ」と述べ(二巻、245頁)、例え教祖が死んだとしても教団が存続していくことを予告する。

村上が、地下鉄サリン事件の被害者のインタビューをまとめ、さらにオウム真理教の裁判を傍聴しながら考え続けてきたこと、それは決して単純なカルト批判ではない。むしろ、カルトを受け入れ、カルトに迎合する人間の根底にある問題にメスを入れなければならないと考えている。
むろん、ここに登場する「さきがけ」の教祖深田は、そのモデルとなっている現実のオウムの教祖麻原彰晃とは違う。村上はこの小説で、教祖をビッグ・ブラザーに仕立て上げ、現実のオウム事件では浮かび上がってこなかった一般の人々のカルト(宗教)志向の問題点を抉り出したかったのではないだろうか。
もしそうであるとすれば、村上がこの書物でカルト団体を持ち出したのは、たまたまのことではなく、どうしても真正面から取り組みたかったテーマだった、ということになる。

次ァ1Q84』とエホバの証人

村上は、カルト教団「さきがけ」を、全共闘運動や山岸会、それにオウム真理教などをモデルにしながらも、それらをごちゃ混ぜにしながら描いている。しかし、青豆が小さなときから育てられた宗教団体については、組織の名称「ものみの塔」と神の名前「エホバ」を変えたことを除けば、ものみの塔の信仰そのものを何のためらいもなく描写している。これはルポライター顔負けの記述法で、小説家としては驚くべきことだ。
例えば、ものみの塔の聖書解釈と終末論については次のように解説している。
「その女の子の両親は『証人会』という宗教団体の信者だった。キリスト教の分派で、終末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する。たとえば輸血はいっさい認めない。だからもし交通事故で重傷を負ったりしたら、生き延びる可能性はぐっと狭まる。大きな手術を受けるのもまず無理だ。そのかわり世に終末が訪れたときには、神の選民として生き残ることができる。そして至福の世界を千年間にわたって生きることができる。」(一巻、270頁)
あるいは、エホバの証人の子供たちが学校でどのような問題に直面するかをも見事に描いている。
「彼女が『証人会』信者であることはクラスの全員が知っていた。彼女は『教義上の理由』からクリスマスの行事にも参加しなかったし、神社や仏教の寺院を訪れるような遠足や修学旅行にも参加しなかった。運動会にも参加しなかったし、校歌や国歌も歌わなかった。そのような極端としか思えない行動は、クラスの中でますます孤立させていった。」(一巻、272頁)

輸血拒否というこの団体の最大の問題については、老婦人の口を通してこう語らせる。
「私の正直な意見を述べれば、『証人会』はまともな宗教とは言えません。もしあなたが小さな子供の頃に大きな怪我をしたり、手術を要する病気にかかったりしていたら、そのまま命を落としていたかもしれません。聖書に字義的に反しているからといって、生命維持に必要な手術まで否定するような宗教は、カルト以外の何ものでもありません。それは一線を越えたドグマの乱用です。」(一巻、434-5頁)
さらに著者は、この輸血拒否の教えに対してエホバの証人の子供たちが置かれている位置について、次のような解説を続ける。
「青豆は肯いた。輸血拒否の論理は、『証人会』の子供たちがまず最初に頭にたたき込まれることだ。神の教えに背いた輸血をして地獄に堕ちるよりは、清浄な身体と魂のまま死んで、楽園に行った方が遥かに幸福なのだ。子供たちはそう教えられる。そこには妥協の余地はない。・・・子供たちには批判能力が具わっていない。そのような論理が社会通念的にあるいは科学的に正しいかどうか、知りようもない。子供たちは親から教わったことを、そのまま信じ込むしかない。・・・」(一巻、435頁)
輸血だけではない。ものみの塔が異教的な祭りを拒否していることについても、次のようにふれる。
「聖書の教えにどこまでも忠実な『証人会』の熱心な信者である両親は、あらゆる世俗の祭りを軽蔑し、忌避した。」(二巻、432頁)
むろん、細かなことを言えば、その認識や表現に微妙な不確かさがある。しかしそれはそれとして、小説家が小説の中にここまで書くのは、私の目には異状に映る。

それだけではない。この小説はまた、エホバの証人の子供たちが組織を辞め、一般社会に入っていくときのジレンマについても書いている。
「そこにたまたま『証人会二世』として育った青年が二人働いていた。礼儀正しく、感じの良い連中だった。天吾と同じ年齢で、仕事ぶりも真面目だった。手も抜かず、文句も言わずに働く。仕事の終わったあとで一度、三人で居酒屋に行って生ビールを飲んだことがある。二人は幼なじみだったが、数年前に事情があって信仰を捨てたということだった。そして一緒に教団を離れ、現実の世界に足を踏み入れた。しかし天吾が見たところ、二人とも新しい世界に今ひとつ馴染めないでいるようだった。生まれたときから狭く緊密なコミュニティーの中で育ってきたせいで、より広い世界のルールを理解し、受け入れることが難しくなっているのだ。彼らはしばしば判断力に自信をなくし、困惑した。信仰を捨てたことで解放感を味わうのと同時に、自分たちが間違った決断を下したのではないかという懐疑を捨てきれずにいた。
天吾は彼らに同情しないわけにはいかなかった。自我がはっきり確立される前に、まだ小さな子供のうちにその世界を離れれば、一般社会に同化できるチャンスは十分ある。でもそのチャンスを逃してしまうと、あとは『証人会』のコミュニティーの中で、その価値観に従って生きていくしかない。あるいは少なからぬ犠牲を払って、自力で生活習慣や意識を作り変えていくしかない。」(二巻、56頁)
もし組織を脱会したエホバの証人二世たちがこのような記述を読むなら、これはまさに自分のことを言っている、と錯覚するに違いない。驚くほど正確だ。しかし、このような記述は、小説の流れの中では必ずしも必要な部分とは言えない。この文脈は、主人公青豆の成長過程とは無関係な場所にある。村上はなぜこのようなことにまで立ち入っているのか。

さらに小説は、幼いときにものみの塔の信仰を強要される悲劇を明らかにする。
青豆が伝道のために母親に連れられて歩く姿は(一巻、271頁)、もしエホバの証人が読むなら、この描写はそのまま自分の追体験になるはずである。それは、「どれほど深く子供の心を傷つけるものか」(一巻、273頁)と叫ばざるを得ない経験なのである。
青豆が傷として残っている「いじめの(正確には、いじめられた)経験」を、小説は次のように描く。
「そのときに一人の男子が『証人会』の布教活動をしていることで彼女を揶揄した。家から家をまわり、馬鹿げたパンフレットを渡して回っていることで。そして彼女のことを『お方さま』と呼んだ。それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、むしろ存在しないもの(原文は傍点)として扱い、頭から無視していたからだ。」(一巻、274頁)
「もし両親が『証人会』の信者でなかったとしたら、彼女はごく当たり前の女の子として育ち、みんなに受けいれられていたことだろう。きっと仲の良い友だちもできていたはずだ。でも両親が『証人会』の信者であるというだけで、学校ではまるで透明人間のような扱いを受けている。誰も彼女に話しかけようとしない。彼女を見ようとさえしない。」(一巻、275頁)
エホバの証人の子供たちは、組織(そして親)から「世の友になってはいけない」と教えられ、クラスでは孤立する立場を選ばざるを得ない。それがいじめに発展する。そのときに起こる内面的葛藤は、おそらく経験者でない限り分からない。だが、この小説に知るされている村上の描写は、まるで、二世たちのプログを読んでいるような錯覚に陥らせる。
しかも、この記述は、12章の天吾を扱った記録の中に置かれ、その前後の11章や13章における青豆の行動をもたらす遠因になっているかのような書き振りである。その両章では、青豆とその仲間のあゆみが、度を越えた放縦なセックスをもてあそんでいる。あゆみには、そういう行動に出ざるを得ないような不幸な(レイプの)経験が少女時代にあった。青豆にも、同じではないが、少女時代にいじめの経験があった。それは精神的なレイプと同じなのだ、著者はそう言いたかったように見える。

青豆は、10歳のときに信仰を捨てたにもかかわらず、幼いときから植え付けられたものみの塔の呪縛に縛られ続けている。それは彼女が、とんでもないところで「王国の到来について思いを巡らせ」たり(一巻、236頁)、場違いなところで王国について話たり(例えば一巻、345、353頁)、祈りの言葉を発してしまうことことの中に見られる(二巻、151、156頁)。
「そのあとで、目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。」(一巻、66頁)
「躊躇なく、冷静に的確に、王国をその男の頭上に到来させた。彼女はそのあとでお祈りさえ唱えた。祈りの文句は彼女の口からほとんど反射的に出てきた。」(一巻、302頁)
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。青豆は、幼い頃の宗教的な刷り込みが大人になっても消えないことを、カルト教団の教祖深田との会話の中で確認している。
「あなたは子供の頃、『証人会』の信者だったと聞いている」
「私が選んで信者になったわけではありません。信者になるよう育てられただけです。そこには大きな違いがあります」
「たしかにそこには大きな違いがある「と男は言った。「だが幼い頃に植え付けられたイメージから、人は決して離れることはできない」
「よくも悪くも」と青豆は言った。(二巻、193頁)

青豆は、幼いときに受けた宗教的トラウマから、「家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たち」を嫌悪する(一巻、204頁)。彼女が受けたトラウマは、物理的な暴力というより、彼女の精神を呪縛してしまう有言・無言の周囲の圧力だった。
「だから彼女は両親を憎み、両親が属している世界とその思想を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ普通の生活だった。・・・一刻も早く大人になって両親から離れ、一人で自分の好きなように暮らしたかった。」(一巻、328頁)
「もちろん『証人会』の内部で実際にレイプに巻き込まれるようなことはなかった。少なくとも彼女の身には、性的な種類の脅威は及ばなかった。まわりにいた『兄弟・姉妹』は、みんな穏やかで誠実な人々だった。しかし正しい動機がいつも正しい結果をもたらすとは限らない。そしてレイプというのは、肉体だけがその標的となるわけではない。暴力がいつも目に見えるかたちをとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ。」(一巻、433頁)

そして最後に、この小説が、ものみの塔は家族関係を破壊してしまうカルトだと述べていることに注目しておこう。カルト教団の教祖を殺害するため青豆を雇った老婦人は、青豆がカルトがらみの傷を負っていることを指摘する。
「あなた自身が少女時代に、カルトがらみの心の傷を負っていることは承知しています。あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです。そしてあなたが信仰を捨てたことを決して赦そうとはしない。そのことが今でもあなたを苦しめている。」(一巻、434頁)
青豆は、自分の家族について振り返ってこう言う。
「青豆には四歳年上の兄がいた。おとなしい兄だった。彼女が決意して家を出たとき、彼は両親の言いつけに従い、信仰をまもって生活していた。今どうしているのだろう。しかし青豆は家族の消息をとくに知りたいとも思わなかった。彼らは青豆にとって、もう終わってしまった人生の部分だった。絆は断ち切られてしまったのだ。十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。しかしどれだけ努力をしても、ことあるごとに彼女の心はその惨めな夢の世界に引き戻された。自分が手にしているもののほとんどは、その暗い土壌に根を下ろし、そこから養分を得ているみたいに思えた。どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならないのだ、と青豆は思った。」(一巻、485頁)
「十歳の時、私が信仰を捨てると宣言してからは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの『信仰を捨てたもの』に過ぎなかった。それから私は家を出た。」(一巻、524頁)
「ご存知だとは思いますが、私はわけがあって両親を捨てた人間です。わけがあって、子供の頃に両親に見捨てられた人間です。肉親の情みたいなものとは無縁な道を歩むことを余儀なくされました。・・・」(二巻、24頁)
カルトは、家族の絆より、組織の絆を優先させる。だから、エホバの証人の世界では、脱会した人とは、例え家族であっても口をきくことを許さない。この小説は、青豆の歩んだ道をたどりながら、ものみの塔信仰が家族を引き裂いてしまう様子を実にリアルに描いている。

小説『1Q84』は、ものみの塔・エホバの証人の問題を他にもいろいろな方面から取り上げている。
しかしもう充分であろう。この辺でやめておこう。

私は、この16年間エホバの証人及びその家族と対話をしてきた。カウンセリングをした人の数は優に千人を超えるかと思う。しかし私がそのことをどこかで話しても、関係者以外、耳を傾けてくれる人はほとんどいない。
それなのに、この小さな講義メモが明らかにしているように、かの村上春樹という小説家は、どうしてここまで「証人会」というグループに拘り続けるのだろう。時に、反カルト運動以上の厳しい眼を持って。
あるいは村上は、ひょっとして、オウム以上に、エホバの中にカルトの本質を見出しているのかもしれない。もっと言えば、1984年のオウムに見られるカルト性が、2009年のエホバに巣食っている、と警鐘を鳴らしているのかもしれない。私には、何となく、そんな風に読める。

終わりに
この講義メモは、JWTCのクラスの受講生から受けた質問に対する答えとして用意したものである。従って、小説『1Q84』を読んで問題にすべき文学論や村上春樹論については、そのすべてをカットした。それらは、今後しばらく文壇をにぎわすことだろう。
いつかまた、別のアングルから村上春樹論を語り合えるときがあったら楽しいかと思う。

2009年7月22日
中澤啓介

 

プリンタ用画面
カテゴリートップ
ニュースレター
次
日本イエス・キリスト教団 西船橋栄光教会小岩裕一先生 のクラスから 
カテゴリー一覧
Amazon 検索