村上春樹【1Q84(第三巻)を読んで】    

                         2010428日                                                                                   中澤啓介

 

村上春樹による小説「1Q84」の第三巻が416日に発売された。

一巻と二巻が出版されたとき、二巻の終わり方があまりに唐突であること、この二巻までで終わってしまうと、登場する人物や題材が謎めいた存在だけで終わってしまい、この小説が意図していることが非常につかみにくいことなどから、かなりの人々が三巻目の出版を予測していた。

そして実際、その通りになった。

 

.小説『184』第三巻の展開

 

では、小説『1Q84』の三巻では、物語はどのような展開をたどるのか。はじめに簡単にふれておこう。

1Q84』の一巻目は19844月から6月までの出来事、二巻目は7月から9月に起こった事件が描かれている。すると三巻目は、当然10月から12月までのハプニングということになる。

一巻目と二巻目はそれぞれ24章から構成され、奇数章は青豆という女性、偶数章は天吾という男性をめぐっての話として展開される。つまり、この二人の物語が交互に語られ、別々に起こった事件が次第に一つの出来事に集約されていくという、パラレル手法を用いての描写である。

ところが三巻目は、青豆と天吾に加え、もう一人の牛河という人物が登場し、牛河、青豆、天吾の三人がそれぞれ順番に10章ずつ割り当てられて話が進む。そして最後の31章では、天吾と青豆の話をもって終幕となる。

二巻目までのストーリーを要約すると次のようなものである。

青豆と天吾の二人は小学校時代の同級生で、たった一度だけお互いに相手を意識し、手を握り合って深い愛を感じ合う。しかしその後は離れ離れになり、20年の歳月が流れる。ところがこの二人は、それぞれ全く別の事情から、あるカルト教団の教祖をめぐる事件に巻きこまれることになる。その結果それぞれが別々に「1Q84」の世界に足をふみいれてしまう。こうして二人は、「1Q84」の世界を通して次第に近づけられ、再びめぐり合いそうになるところで二巻目が終わる。

三巻目は、この青豆と天吾がどのように再会するのかが描かれる。この二人の再会のプロセスをかなり詳細に述べ、ハッピーエンドの結末をもたらすのに大きな役割を果たすのが牛河という人物である。彼はかのカルト教団に雇われ、青豆と天吾の動向を調べるのだが、その記述自体がこの物語の展開を解説する役目をになうのである。

この第三巻によって、一巻目と二巻目では謎めいて描かれている幾つかの事柄、例えば「1Q84」の世界、リトル・ピープルの実態、天吾の父親との関係などが明らかにされる。そしてこの小説が伝えたかったであろう意図も。

 

.小説『184』の意図は何だったのだろうか

 

私は以前のJWTCのクラスにおいて、「1Q84」の一巻目と二巻目を読み、この小説がものみの塔(エホバの証人)についてどのように扱っているかという観点を取り上げた。その内容はJWTCのホームページに「『1Q84』を読んで」というタイトルで掲載されている。ご覧いただければうれしく思う。

その中で私は、この小説の意図について次のように解説した。少々長くなるが、ここに引用することをお許しいただきたい。

 

この小説はいったい何を言いたいのだろう?

読者は誰でも、そんな問いを抱きながら、小説を読み続ける。そしてほとんどの読者は、この小説を読み終わった後、途方に暮れる。いったい、著者村上春樹は、この小説『1Q84』を通して、何を言いたかったのだろう? と。

小説は小説である。そんなに小難しいことを考えなくてもよいのかもしれない。ただ、この小説を読んで、何か一つでも感ずるものがあれば、それでよしとせよ、ということなのかもしれない。

しかし村上は、チェーホフの言葉をかり、「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と述べている(一巻、472頁)。とすれば、この小説に何かの正解を求めることはできないにしても、村上が何かの問題提起をしようとしていると考えることは間違いではないはずだ。

ではそれは何だろう。

この小説には、二人の主人公にとって核になっている出来事がある。それは、天吾が十歳のとき、同級生の青豆に手を握られるという出来事である。そのとき彼は、彼女の生命の温もりを深く感じ、彼女の無言の愛を受け取る。この体験、そのときの鮮明な意識こそ、彼のその後の歩みを決定づける。

青豆にとっても全く同じだった。その経験が、彼女のそれからの波乱万丈の人生にとって、原点として響き続けるのである。

━ 中略 ━

実は、青豆も天吾も不幸な幼年期を送っている。そして、この小説に登場する人物のほとんどが暴力の犠牲者である。夫の妻に対する悲惨なDV、無力な児童に対する親の虐待、過激な思想集団がもたらす暴力闘争、宗教的狂信がもたらす信者への虐待、人々を憎しみや絶望の淵に追い込む理不尽な出来事、そういった「闇」の世界が至るところを覆っている。

暴力とか虐待は、物理的なものであれ象徴的なものであれ、人間存在の内部に大きな影を投ずる。その影が幼いときであればあるほど、大きな傷として残り、その後の人生を決定的に左右する。人がそれに立ち向かうことは容易ではない。ほとんどの人が、その種の暴力的で虚無的な「闇の力」に圧倒され、もがきながら生きることを余儀なくさせられる。

では、そこには希望はなく、絶望しか残っていないのか。そうではない。この小説は、そのような闇に打ち勝つ別の経験を提示し、読者に希望を与えようとしている。それは、人が生きることの原点になるような愛の体験である。それは、人が直面するどんな暗闇をも打ち破り、孤独感から解放する。人に生きる希望と力を与えるものなのだ。

もし小説『1Q84』をこのように読むなら、この小説は途方もない愛のメッセージを伝えていることになる。小説は本来、虚無的な世界をそのままにして終わるのが一般的である。その方が自然な流れであり、読者の共感も得られやすい。ところがこの小説は、その虚無的なところを越え、その向こう側にあるさらに違った新しい世界を差し出す。それを読む読者は、ひょっとすると人生もまた捨てたものではない、くじけないで生きていこうではないか、そう思わせられるのではないだろうか。

 

私は、小説の狙いを詮索しながら上記のようにまとめてみた。実はそのとき、自分でこんなふうに書いておきながら、たぶん村上春樹が意図したことはこんな表面的な甘いモチーフではないだろう。もっともっと深い何かがあるに違いない。ただそれは私の能力を超えており、私には分からない。分からないと書くのでは情けないので、とりあえず何かを書かなければならない。そんなわけで上記のようなことを書いた。だが、たぶん著者村上から「俺はそんなことを言ってないよ」と笑い飛ばされ、お叱りを受けるだろう、そう思っていた(村上はいかなる人の評論も読まないし、気にすることもないと聞いたことがあるので、私の文章など手にするはずはないのだけれど)。

ところが驚いたことに、三巻目は、天吾と青豆の二人が遂に邂逅し、(1Q84ではない)1984年の現実の世界において幸せになるというストーリーである。つまりこの三巻を読む限り、著者村上の意図は、私が書いたとおり(あるいは近い)だったのである。三巻を読み終わったとき、やっぱり自分の思ったとおりだったという安堵感と、何だこの程度の話だったのかという失望感とが交差し、妙な脱力感に襲われたことを覚えている。

確かにこの三巻では、二巻まででは理解しにくかった多くのことが明らかにされる。それはそれとしてよかったのだが、私自身は、ミステリヤスな部分はミステリヤスなものとしてあいまいなままに残し、読者の自由な発想にその解釈を委ねた方がよかったという思いがした。そうすれば百花繚乱の俗説が巷にあふれ、ずっと面白い形で後世まで話題を撒き散らす小説として語られ続けられたと思う。いま少しの間、ノーベル賞候補に一番近い作家という世評に一人歩きをしてもらい、あるいはファンタジーの世界に魅了されるハルキストたちのご活躍を願って、この小説が話題沸騰、現実世界を騒然とさせるようにでもなれば、村上春樹の「1Q84」のパラレルワールドが、閉塞感に覆われているこの21世紀の「1984」という現実の日本社会により大きなインパクトを与えたのではないだろうかとしきりに思わされるのである。

 

.184』とエホバの証人・カルト問題

 

話を、このクラスの受講生の関心事に戻したいと思う。

この小説がJWTCのクラスで扱われる理由は、この小説がものみの塔(エホバの証人)についてたくさん言及しているからである。青豆という女性主人公がエホバの証人の家庭に育ち、その影響を大きく受けていることが、この小説の重要な部分を占めている。エホバの証人問題を扱っているJWTCは、その意味でこの小説を無視するわけにはいかないのである。

村上が描く「1Q84」の世界は、日本で強力に活動している四大カルトを舞台に(あるいはヒントを得て)描かれている。オウム真理教を契機に発足した「日本脱カルト研究会」は、各種団体(それはあらゆるグループに適用できる)がどれほどカルト的であるかを図る指標を作成している。それは104項目にわたる事項それぞれに、0点から3点までをつけ、点数が高いほどカルト度が高いと判断できるようになっている。その表を用いると、オウム真理教は240点ほどになり、ダントツでカルト度が高いという結果が出る。さらに、統一協会は180点、ものみの塔とヤマギシ会は130点前後で三位と四位を争っているという結果が出た。従ってこれらのグループは、日本における四大カルト団体と見なしてよいと思う。

村上の「1Q84」の世界は、この四つのカルト団体に微妙にからめられて描かれている。「さきがけ」という宗教団体はオウム真理教をモデルにしている。その「さきがけ」に関わりのあるグループはヤマギシ会(一部、全共闘運動にも重ねあわされている)を想定させるし、ふかえりの性行動や青豆の子供の誕生などについては統一協会の血わけという教理にからんでいる。そして、青豆の登場はエホバの証人の世界である。

普通小説では、実在のモデルは肝心な点においてヒントを与えはするが、詳細な部分ではわざわざぼかされ、一般化されたかたちで提供されるものである。この「1Q84」においても、オウム真理教、統一協会、ヤマギシ会についてはそうされている。ところが、ものみの塔の話になると、本当に不思議なことなのだが、全く様相を異にする。あたかもルポライターが、自分の調べた状況をできる限り正確に描こうとするかのように、エホバの証人たちの問題を微にいり、細にいり紹介する。小説としての良し悪しの評価は別になされるべきだとは思うが、エホバの証人問題に取り組んでいる私たちにとっては、よくここまで書いてくれたとエールを送りたい気分である。

この点は、一巻及び二巻だけでなく(詳しくは先の講義メモをお読みいただきたい)三巻においても全く変わらない。三巻では、牛河が青豆の過去を調べていく記述と、青豆の心境を解説する部分に多く出てくる。それでは頁を追いながら、エホバの証人と直接関係する部分を紹介し、簡単なコメントを付しておこう。その一つ一つの記述をかみ締めながら、現実のエホバの証人たちの活動に照らし合わせ、じっくりお考えいただきたいと思う。

 

テキスト1(16頁)

あなた方は既に青豆さんの家族関係をチェックされた。そうですね?家族揃って『証人会』の熱心なメンバーだ。両親はまだ元気に勧誘活動を続けている。三十四歳になる兄は小田原にある本部に勤務し、結婚して子供が二人いる。奥さんもやはり熱心な「証人会」の信者です。家族の中ではこの青豆さんだけが『証人会』を離れ、彼らに言わせれば『背教』し、従って家族からは絶縁されています。もう二十年近くこの家族が青豆さんと接触した形跡は見当たりません。彼らが青豆さんをかくまうという可能性はまず考えられません。この女性は十一歳のときに自ら家族との絆を断ち切って、それ以来おおむね独力で生きてきました。叔父さんの家に一時的にやっかいになったが、高校に入る頃には事実上自立しています。たいしたものです。強い心を持った女性だ」

坊主頭は何も言わなかった。それは彼も既に掴んでいる情報なのだろう。

「この一件『証人会』がからんでいるとはまず考えられません。『証人会』は徹底した平和主義、無抵抗主義で知られています。彼らが教団ぐるみでリーダーの命を狙うなんてことはあり得ない話です。それには同意していただけるでしょうね」

穏田は肯いた。「今回の出来事には『証人会』は絡んでいない。それはわかっています。念のために彼女の兄に話を聞きました。

 

これは、教祖を殺されたカルト教団(さきがけ)が青豆と天吾を調べるように依頼した牛河と、教祖が殺害されたときに護衛を担当していたボディガードの男(穏田)との会話の一部である。ここでは、教団の本部が小田原にあるが、実際のものみの塔の本部(日本支部の場所)は、小田原近くの海老名である。

エホバの証人の仲間の間では、信仰をやめることを「背教」というが、それはものみの塔の独特な表現である。背教した人は、それ以降たとえ家族であっても交流が絶たれ、絶縁状態を余儀なくされる。だから「もう二十年近くこの家族が青豆さんと接触した形跡は見当たりません」という言葉は、背教した元エホバの証人たちにとっては生涯負わなければならない苦悩なのである。そういう意味では、このカルト組織が青豆をかくまうことなどありえないと断言するのは正確である。

また、青豆がかつて属していたグループは「徹底した平和主義、無抵抗主義」であると述べられているが、ものみの塔は、平和主義で知られている宗教団体である。それは兵役拒否や武道などの格闘技が禁じられていることで知られている。

 

テキスト217頁)

「もちろん冗談です。詰まらない冗談です。そう怖い顔をしないで下さいな。とにかくその方は青豆さんの行動についても、行方についても何ひとつ知らなかった」と牛河は言った。「私は根っからの平和主義者ですから、手荒い真似はいっさいしませんが、それくらいはわかります。青豆さんは家族とも『証人会』ともまったく関わりがありません。

  

これは、牛河がボディガードに青豆のことを説明している箇所であるが、青豆が11歳の時に背教して以来「家族とも『証人会』ともまったく関わりがありません」と述べている。エホバの証人の世界では背教した人を排斥という処分にし、それ以降エホバの証人たちは、街で出会っても挨拶することさえ禁じられている。このような背教者への対応は、背教の恐ろしさを見せしめの材料にするためであり、または異教者たちが持っている組織にとっての不都合な情報を遮断するためである。

 

 

テキスト38990頁)

もともと社交的な性格ではない。長期間にわたって誰と会わなくても、誰と話さなくても、不便は感じない。小学生のときには級友とほとんど口をきくことさえなかった。正確に言えば、必要のない限り誰も彼女とは口をきいてくれなかった。青豆はその教室にあっては「わけのわからない」異分子であり、排除され黙殺されるべきものだった。青豆にはそれは公正ではないことに思えた。もし彼女自身に落ち度や問題があるのなら、排除されても仕方ないかもしれない。しかしそうではない。小さな子供が生き延びていくには、両親の命令に黙って従うしかないのだ。だから給食の前には必ず大きな声でお祈りを捧げ、日曜日には母親と共に町を歩いて信者の勧誘をし、宗教上の理由から寺社への遠足をボィコットし、クリスマス・パーティーを拒否し、他人のお下がりの古着を着せられることにも文句ひとつ言わなかった。しかしまわりの子供たちは誰もそんな事情を知らないし、またわかろうともしない。ただ気味悪がるだけだ。教師たちだって明らかに彼女の存在を迷惑に思っていた。

もちろん盲豆は両親に嘘をつくことができた。毎日給食の前にお祈りの文句を唱えていると言って、唱えないでいることもできた。しかしそれをしたくなかった。ひとつには神さまに対し━実際にいるにせよいないにせよ━嘘をつきたくなかったからだし、もうひとつは同級生に対して、彼女なりに腹を立てていたからだ。そんなに私を気味悪がりたいのなら、好きなだけ気味悪がればいい。青豆はそう思った。お祈りを続けることはむしろ彼らに対する挑戦になった。公正さは私の側にある。

朝目を覚まし、学校に行くために服を着替えるのが苦痛だった。緊張のためによく下痢をしたし、ときどき吐いた。熱を出すこともあったし、頭痛や手足の痺れを感じることもあった。それでも一日も学校を休まなかった。もし一日休めば、そのまま何日も休みたくなるはずだ。そんなことが続けば、二度と学校には行かなくなるだろう。それは同級生や教師に自分が負けることを意味する。彼女が教室からいなくなったら、みんなはほっとするに違いない。青豆は彼らにほっとなんてしてもらいたくなかった。だからどんなにつらくても、這うようにして学校に出かけた。そして歯を食いしばって沈黙に耐えた。

 

ここは、著者村上が青豆の小学校時代のことを描写している箇所である。もしエホバの証人の子供たちがここに書かれている青豆の体験、そしてそのときの彼女の気持ちを読むなら、この箇所はまるで自分の体験をそのまま書いているのではないだろうかと錯覚せずにはおれないはずである。程度や具体的な問題に個人差があることはいうまでもないが、私がこれまでに出会ったエホバの証人の二世の子供たちは、10人が10人異口同音に同じような体験を語ってくれた。それは大抵、深い心の痛みを感ぜずに聞くことはできないものばかりだった。

一度といわず二度、二度と言わず三度、この記録を読み返してもらいたい。こういう経験が小説の中だけでなく、エホバの証人の世界では今でも繰り返されているのである。

 

テキスト4129-30頁)

牛河が求めている情報は二つあった。ひとつは今も「証人会」の熱心なメンバーである青豆の両親についての個人情報だった。「証人会」は全回の信者の情報を中央で管理していると牛河は確信していた。日本国中に「証人会」信者の数は多いし、本部と各地支部とのあいだの行き来や物流は盛んだ。中央に蓄積情報がなければ、システムは円滑に動かない。「証人会」の本部は小田原市郊外にあった。広い敷地に立派なビルが建ち、パンフレットを印刷する自前の工場があり、全国からやってくる信者のための集会場や宿泊所がある。すべての情報はそこに集められ、厳重に管理されているに違いない

 

これは、牛河が青豆の情報を集める過程で知った、ものみの塔組織の中央集権的な統制構造と情報管理のシステム、本部の建物などについての記述である。もし海老名にあるものみの塔日本支部を訪れるなら、ここに描かれている通りの立派なビル、印刷工場、集会場や宿泊所を見学できるだろう。私は、村上が単にパンフレットを見てこのような記述をしたというより、実際に本部に足を運び、その活動をつぶさに目の当たりにして描いているのだと思う。

 

テキスト5131頁)

「ジムの方は簡単でしょう。誰かに情報を盗まれるなんて考えてもいないはずです。でも『証人会』はちと厳しいですよ。でかい組織だし、資金もたっぷりあるし、ガードをしっかり固めてるいでしょう。宗教団体は接近するのがもっともむずかしい相手のひとつです。個人の機密保護の問題もあるし、税金の問題もからんでいますから」

 

これは、牛河が非合法の情報を集めてくれる情報屋と交わす電話による会話の一部である。小説のカルト団体は、「でかい組織だし、資金もたっぷりあるし、ガードをしっかり固めている」と言われているが、それはまさにものみの塔の姿である。エホバの証人たちが毎月払っている雑誌や書籍の金額をざっと計算するなら、毎年100億ぐらいの純益が海老名の本部に入ってくるはずである(むろんこれは、私の勝手な推定であるが)。最近は、経済的に厳しい状況にあるのか、雑誌も発行数を減らし、書物も廉価なものに変えつつあるが、それでもその収入は日本の他のカルト団体の比ではない。

 

テキスト6134頁)

コウモリからの電話を待つあいだ、牛河は図書館に行って「証人会」の歴史や現在の活動状況について詳しく調べた。メモを取り、必要な部分はコピーした。

 

このテキストは、牛河がものみの塔に関する情報を集めている姿を述べている。私には、著者村上がこの小説を書くときに夢中になってものみの塔の資料を調べている姿にダブって見える。それぐらい正確に、「1Q84」はものみの塔組織の実態を暴きだしている。

 

テキスト7144-45頁)

「証人会」の資料の整理には時間がかかった。分量がおそろしく多い上に、ほとんどの資料は牛河にとって役に立たないものだったからだ。青豆の一家がどれくらい「証人会」の活動に貢献してきたかという数字的な報告がその大半を占めていた。それらの資料を読む限り、確かに青豆一家は熱心で献身的な信者たちだった。彼らはその人生の大半を「証人会」の布教に捧げてきた。青豆の両親の現住所は千葉県市川市になっていた。三十五年間に二度引っ越しをしたが、どれも市川市内の住所になっている。父親青豆隆行(五十八歳)はエンジニアリングの会社に勤務し、母親青豆慶子(五十六歳)は無職となっている。長男である青豆敬一(三十四歳)は市川市内の県立高校を卒業したあと、東京都内にある小さな印刷会社に就職したが、三年後にそこを退職し、小田原にある「証人会」本部に勤務するようになった。そこでも教団パンフレットを印刷する仕事に携わり、今では管理職に就いている。五年前に信者の女性と結婚し、子供を二人もうけ、小田原市内にアパートを借りて暮らしている。

長女である青豆雅美の経歴は十一歳の時点で終わっている。彼女はそこで信仰を捨てたのだ。そして信仰を捨てた人間に対して「証人会」は一切の興味を失ってしまったようだった。「証人会」にとって青豆雅美は十一歳で死んだも同じだった。そのあと青豆雅美がどんな人生を辿ったのか、生きているのかいないのか、一行の記述もない。

こうなったら両親か兄のところに行って話を聞いてみるしかなさそうだな、と牛河は思った。そこで何かヒントが得られるかもしれない。しかし資料に目を通した限り、彼らが牛河の質問に対して快く答えてくれるとは思えなかった。青豆家の人々は━もちろん牛河の目から見ればということだが━「偏狭な考え方を持ち、偏狭な生活を送る人々であり、偏狭であればあるほど天国に近づけると頭から信じて疑わない人々だった。彼らにとって信仰を捨てた人間は、たとえ身内とはいえ、間違った穢れた道を歩む人間なのだ。いや、もう身内とも思っていないかもしれない。

青豆は少女時代に家庭内暴力を受けただろうか?

受けたかもしれないし、受けなかったかもしれない。

しかしもし受けたとしても、両親はそれを家庭内暴力としてはとらえていないはずだ。「証人会」が子供たちを厳しく指導することを牛河は知っていた。そこには多くの場合体罰が伴った。

しかしだからといって、そのような幼児期の体験が心の傷となって深く残り、成長して誰かを殺害するまでに至るものだろうか?もちろんあり得ないことではないが、牛河にはそれはかなり極端な仮説のように思えた。人を一人計画的に殺すというのは大変な作業だ。危険も伴うし、精神的負担も大きい。捕まれば重い刑罰が待っている。そこにはもっと強い動機が必要とされるはずだ。

牛河はもう一度書類を手に取り、青豆雅美の十一歳までの経歴を念入りに読み直した。彼女は歩けるようになるとすぐに、母親について布教活動をおこなっている。戸口をまわって教団のパンフレットを手渡し、世堺が避けがたく終末に向かっていることを人々に訴え、集会への参加を呼びかけるのだ。教団に入ればその終末を生き延びることができる。そのあとには至福の王国が訪れる。牛河もそのような勧誘を何度か受けたことがあった。相手はたいてい中年の女性で、帽子か、日傘を手にしている。多くは眼鏡をかけ、賢い魚のような目で相手をじっと見る。子供を連れている場合も多い。牛河は小さな青豆が母親のあとをついて家々を回っている情景を想像した。

彼女は幼稚園には入らず、近所の市立小学校に入学した。そして五年生のときに「証人会」を脱会している。棄教の理由は不明だ。「証人会」は棄教の理由をいちいち記録したりしない。悪魔の手に落ちた人間は、悪魔の手にまかせておけばいいのだ。彼らは楽園について語り、楽園に通じる道について語ることで十分に忙しかった。善人には善人の仕事があり、悪魔には悪魔の仕事がある。一種の分業がなされているわけだ。

 

牛河のものみの塔に関する報告は、きわめて正確である。例えば、青豆の兄について、「五年前に信者の女性と結婚し、子供を二人もうけ、小田原市内にアパートを借りて暮らしている」と述べているが、海老名の本部では、子供ができるとその敷地内から外に出て生活しなければならないことになっている。

ここでは、青豆の記録が背教と同時に組織の中ではなくなっていると言われているが、背教者はサタンの手に渡されてしまった者で、家族といえども一切の関係が絶たれてしまうのである。「いや、もう身内とも思っていないかもしれない」と、青豆のことが言われているが、実際のエホバの証人の世界では、クエッションマークではなく、断定されねばならない。

「そこには多くの場合体罰が伴った」とは、エホバの証人の世界における「子供へのお仕置き、ムチ」のことである。後のテキスト12では、「物差しで手の甲を強く打たれた」と述べられているが、まさにそのことである。エホバの証人の離婚裁判が各地で持ち上がっているが、そのとき必ず問題とされるのがこの「ムチ」によるお仕置きである。裁判の効果があったせいでもあろう、最近は少々減ってきているという報告もあるが、会衆によってはいまだかなりひどい状態が続いているとも聞いている。子供たちが親の言うことを聞かない(それは組織の言うことを聞かないということであり、神に不忠実であるということである)と厳しいムチが飛んでくるというのは、DVの典型的なものである。元エホバの証人であったお母さんたちが、組織脱会後に、このムチの加害者であったことをお聞きするのは、とてもつらいことであるが、この問題を取り扱わないでは前に進むことができない脱会者たちが非常に多い。

牛河は、エホバの証人が伝道して歩いている姿を、「相手はたいてい中年の女性で、帽子か、日傘を手にしている」と描写している。街を歩けば、誰でもこのような婦人に出会い、彼女たちがエホバの証人の伝道をしていることは周知の事実である。

青豆は、「幼稚園には入らず」と言われている。これもまた、エホバの証人の世界を知るものにとっては心痛む記述である。夫婦そろってエホバの証人である家庭の子供たちは、幼稚園に行かないのが普通であり、母親の後をくっついて伝道に歩かされているのである。

「「証人会」は棄教の理由をいちいち記録したりしない」という記述も、ものみの塔組織においてはそのまま当てはまる。

 

テキスト8146頁)

牛河は再度その分厚い書類に目を通した。日で文章を追うだけではなく、いろんな情景を具体的に頭に思い浮かべた。三歳の青豆が母親に付き従って布教にまわる。おおかたの場合、戸口ですげなく追いかえされる。彼女は小学校に上がる。布教活動は続く。週末の時間はすべて布教にあてられる。友だちと遊ぶ時間もなかったはずだ。いや、友だちなんてできなかったかもしれない。「証人会」の子供たちは.学校でいじめや排斥にあうことが多い。牛河は「証人会」について書かれた書物を読んで、そのこともよく知っていた。そして彼女は十一歳で棄教する。棄教には相当な決心が必要であったはずだ。青豆は生まれたときから信仰を叩き込まれている。その信仰と共に育ってきた。身体の芯にまでそれは浸み込んでいる。洋服を着替えるように簡単に捨て去れるものではない。それはまた家庭における孤立を意味している。きわめて信仰深い家族だ。棄教した娘を彼らがすんなり受け入れることはあるまい。信仰を捨てるのは家族を捨てるのと同じことなのだ。

十一歳の時に、青豆の身にいったい何が起こったのだろう?何が彼女にそのような決断をさせたのだろう?

 

エホバの証人の子供たちについて、「友だちと遊ぶ時間もなかったはずだ。いや、友だちなんてできなかったかもしれない」と描かれている。実は、彼らは親から(それは組織からという意味であるが)「世の友になってはいけない」と教えられている。だから、単に忙しくて時間がないというだけでなく(集会と伝道が義務付けられているのだからこの状況は確かなのだが)、サタンの世界に首を突っ込んではいけないと警告されており、自らを規制してしまっているのである。従って、「「証人会」の子供たちは.学校でいじめや排斥にあうことが多い」のも、悲しい事実である。

多くの二世の子供たちが、信仰を捨てたいと思いながら、それをできないでいる。それは、彼らにとって、「信仰を捨てるのは家族を捨てるのと同じこと」であり、生きる術がなくなってしまうということなのである。信仰を捨てることは家族から離れることであり、それまで大事にしていた人間関係をすべて切ることに他ならない。狭い信仰共同体でしか生きることが許されなかった信者たちにとって、背教とはその共同体を捨てることであり、結局は生きることを断念せよというに等しいことになるのである。

 

テキスト9199頁)

それに比べると、青豆という人間について牛河は何も知らないようなものだ。わかっているのは、彼女が「証人会」の熱心な信者の家に生まれ、物心ついたときから布教に回らされていたということくらいだ。小学校五年生のときに信仰を捨て、足立区にある親戚の家に引き取られる。たぶんそれ以上我慢しきれなくなったのだろう。

しかし青豆と天吾の履歴を頭の中で重ねているうちに、そこにいくつかの共通点が存在することがわかってきた。まずだいいちに、彼らの子供時代はそれほど幸福なものではなかったはずだ。青豆は布教のために母親と一緒に街を歩き回されていた。家から家へとベルを押してまわる「証人会」の子供たちはみんなそれをやらされる。そして天吾の父親はNHKの集金人だった。これもまた戸口から戸口へと歩き回る仕事だ。彼は「証人会」の母親と同じように、息子を連れて歩いただろうか?歩いたかもしれない。もし自分が天吾の父親であったなら、きっとそうするだろう。子連れの方が集金の成績も上がるし、ベビーシッターの費用もかからない。一挙両得だ。しかし天吾にとってそれは楽しい経験ではなかったはずだ。あるいは二人の子供たちが市川市の路上ですれ違うことだってあったかもしれない。

 

二世の子供たちがそろって苦にしたことを告白するのは、家から家を回る伝道である。エホバの証人たちは、毎月そのような伝道にどれぐらいの時間を使ったのか報告せねばならない。そして、40時間以内は、単なる伝道者、70時間までは補助開拓者、90時間までは正規開拓者、特別開拓者になると月最低120時間の伝道が課せられているのである。組織からは伝道に出るよう叱咤激励され、母親からはムチが飛ぶ。子供たちはそんな呪縛に縛られながら生きることを余儀なくされているのだ。

「あるいは二人の子供たちが市川市の路上ですれ違うことだってあったかもしれない」という最後の文章に心が痛む。ここでは簡単に書かれているが、二世の子供が伝道しているときに一番いやな経験は、クラスの友達とばったり会ってしまうことだと話す子供が多い。そんな姿を見られることがいじめや仲間はずれに通じているからである。

 

テキスト10205207頁)

彼女は肯いた。「市川市には『証人会』の大きな支部があります。ですから何人かの『証人会』の子供たちを私は担任してきました。教師という立場から見れば、そこにはそれぞれ微妙な問題があり、そのたびに注意を払わなくてはなりません。しかし青豆のご両親くらい熱心な信者さんはほかにはおられませんでした」

「つまり妥協ということをしない人々だった」

女教師は思い出すように軽く唇を噛んだ。「そうです。原則に対してきわめて厳密な人々でしたし、子供たちにも同じ厳密さを要求しました。そのために青豆さんはクラスの中で孤立せざるを得なかったのです」

「青豆さんはある意味では特殊な存在だったわけですね」

「特殊な存在でした」と教師は認めた。もちろん子供に責任はありません。もし何かに責任を求めるとすれば、それは人の心を支配する不寛容さです」

女教師は青豆について語った。ほかの子供たちは青豆の存在をおおむね無視していた。可能な限り、彼女をいないものとして扱っていた。彼女は異分子であり、奇妙な原則を振りかざしてほかのみんなに迷惑をかけるものだった。それがクラスの統一見解だった。それに対し青豆は、自らの存在を可能な限り希薄にすることで身を護っていた。

「私としてもできる限りの努力はしました。しかし子供たちの結束予想を超えて固く、青豆さんは青豆さんで、自分をほとんど幽霊のような存在に変えていました。今であれば専門カウンセラーの手に委ねることもてきます。しかし当時そんな制度は存在しません。私はまだ若く、クラスをひとつにまとめていくだけで手一杯でした。おそらく言い訳にしか聞こえないでしょうが」

彼女の言っていることは牛河にも理解できた。小学校教師という仕事は重労働だ。子供たちのあいだのことは、ある程度子供たちに任せてやっていくしかない。

「信仰の深さと不麗容さは、常に表裏の関係にあります。それはなかなか我々の手には負えないことです」と牛河は言った。

「おっしゃる通りです」と彼女は言った。「でもそれとは別のレベルで、何か私にできることはあったはずです。私は何度か青豆さんと話し合おうとしました。しかし彼女はほとんど口をきいてくれませんでした。意志が強く、一度こうと決めたら考えを変えません。頭脳も優秀です。優れた埋解力を持ち、学習意欲もあります。しかしそれを表に出さないように、厳しく自分を管理し抑制しています。目立たないことがおそらく身を護るただひとつの手段だったのです。もし通常の環境に身を置いていたなら、彼女もやはり素晴らしい生徒になっていたでしょう。それは今思いかえしても残念なことです」

「彼女のご両親とお話しになったことはありますか」

女教師は肯いた。「何度もあります。信仰の迫害があるということで、ご両親は度々学校に抗議にみえました。そのときに私は、もう少し青豆さんがクラスにとけ込めるように協力していただけまいかとお願いしました。僅かでも原則を曲げてもらえないだろうかと。でも無駄でした。ご両親にとっては信仰のルールを厳密に守ることが何よりも大事でした。彼らにとっての幸福とは楽園に行くことであって、現世における生活はかりそめのものに過ぎません。でもそれは大人の世界の理屈です。育ち盛りの子供の心にとってクラスでみんなに無視されたりつまはじきざれたりするのがどれほどつらいことか、それがどれほど致命的な傷をあとに残すことになるか、残念ながらわかってはいただけませんでした」

青豆が大学と会社でソフトボール部の中心選手として活躍し、現在は高級スポーツ・クラブの有能なインストラクターになっていることを、平河は彼女に教えた。正確に言えば少し前まで活躍したということになるが、そこまで厳密になることはない。

「それは良かった」と教師は言った。彼女の頬に淡く赤みがさした。「無事に成長し、自立して元気に生きておられる。それを聞いて安心しました」

 

ずいぶん長い引用ではあるが、これは、小学校時代の青豆の担任教師の言葉である。ここには、教師の立場から見たエホバの証人の子供たちの様子が実に見事に描かれている。青豆の両親について、「妥協ということをしない人々」であり、「原則に対してきわめて厳密な人々」だと言われているが、エホバの証人とは皆原理主義者であり、融通が利かない。原理主義の立場を取ることはときにとても重要なことだが、凝り固まってしまった原理主義者ほど手に負えないものはない。まさに、「人の心を支配する不寛容さ」で一杯だからである。

この教師が、20年も前の青豆のことをよく覚えていたのは、彼女がクラスの中で全く特異な存在だったからである。先生は彼女について、「ほかの子供たちは青豆の存在をおおむね無視していた。可能な限り、彼女をいないものとして扱っていた。彼女は異分子であり、奇妙な原則を振りかざしてほかのみんなに迷惑をかけるものだった。それがクラスの統一見解だった。それに対し青豆は、自らの存在を可能な限り希薄にすることで身を護っていた」と述べている。このような記述に私は心が痛む。そのようなことは、決して20年前の小説の中での回想物語ではなく、今この時点でも、エホバの証人の子供たちの世界では日常茶飯事の出来事として起こっているからである。愛の反対語は「無視」だと聞いたことがある。そこにいながら、いないものとしてとり扱われることの侮辱を味わったことはあるだろうか。

 

テキスト11216頁)

初潮の到来を告げると、母親は嫌な顔をした。余分な面倒をひとつ背負い込んでしまったみたいに。少し早すぎるね、と母親は言った。でも青豆はそんなことを言われても気にしなかった。それは彼女白身の問題であり、母親の問題でもほかの誰の問題でもない。彼女は一人で新しい世界に足を踏み入れたのだ。

 

私は、娘を育てたことのある母親に聞いてみたい。「初潮の到来を告げると、母親は嫌な顔をした」という記述を読んでどう思うか、と。親子の正常な感情をも殺させてしまうのがカルト宗教の恐ろしいところである。このような感覚で生きている母親がエホバの証人の中にいかに多いことか。しかも彼女たちは、エホバの証人になる前はごくごく普通の人、否人間としてはよくできた人々、人生や家族のことを真面目に考え続けてきた人々である。人間の自然な感情は、カルト組織にとっては不都合である。信者個人と組織の間に、家族を含めいかなるものをも介入させないのである。

 

テキスト12217218頁)

青豆は目を閉じて思考を停止する。頭の中が空になると、音もなく何かがそこに流れ込んでくる。そして知らないうちにお祈りの文句を唱えている、

天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。

どうしてこんなときにお祈りの文句が口に出てくるのだろう。王国も楽園もお方さまも、そんなものちっとも信じていないというのに。それでも文句は頭に刻み込まれている。三歳か四歳、言葉の意味もろくにわからないうちから、その文句を丸ごと暗誦させられた。一言でも言い間違えると、物差しで手の甲を強く打たれた。普段は目に見えなくても、何かがあるとそれは表面に浮かび上がってくる。秘密の入れ墨と同じように。

 

青豆は11歳の時にカルト団体から離れた。にもかかわらず、20年たっても幼いときに刷り込まれた祈りの文句は思いがけない時に出てくる。この小説においても、青豆の口に、思わない時にいわゆる「主の祈り」が登場する。「物差しで手の甲を強く打たれ」ながら覚えさせられた祈りの言葉は、青豆の歩みにこれほど大きな影響を与えるのかと一巻でも、二巻でもびっくりさせられるのだが、三巻においても全く同じである。

 

テキスト13218頁)

私が性行為抜きで妊娠したと告げたら、母親はいったいなんと言うだろう?それを信仰に対する重大な冒瀆だと考えるかもしれない。なにしろ−種の処女懐胎なのだ一もちろん青豆はもう処女ではないが、それにしても。あるいはそんなことにはまったくとりあわないかもしれない。耳を傾けさえしないかもしれない。私は遥か昔、彼女の世界から落ちてしまった出来損ないの人間なのだから。

 

青豆は、自分の母親は自分が妊娠したことを知ったなら、「そんなことにはまったくとりあわないかもしれない。耳を傾けさえしないかもしれない」と述べている。これほど悲しい親子関係はあるだろうか。青豆は、母親が自分のことを「遥か昔、彼女の世界から落ちてしまった出来損ないの人間」と見なしていたことをよく知っている。その理由は唯一つ、彼女が背教してしまったからである。そういう価値観、人間観、信仰観を叩き込むのがものみの塔の信仰なのである。カルト団体は、人間の本当の人間らしい部分を奪ってしまうところにその特色がある。

 

テキスト14219-20頁)

しかし何かの力が私に作用し、私は死ぬことをやめた。ずっと遠くの方でひとつの声が私の名を呼んでいた。それはひょっとして私が妊娠していたためではないのか?何かが私にその生命の誕生を教えようとしていたのではないだろうか?

━ 略 ━

青豆は顔の筋肉を緩め、表情をもとに戻す。誰かが私を見守り、保護してくれているのだ。青豆はそう思う。この1Q84年の世界にあっても、私はまったくの孤独ではない。たぶん。

 

青豆は、カルト教団の教祖を殺して自害しようとした。その経験は二巻の終わりに記されている。ところがここでは、そのとき「ずっと遠くの方でひとつの声が私の名を呼んでいた」と証詞をしている。彼女は、11歳のとき、カルト団体から背教した。そのとき彼女は、神から離れたと思っていた。ところが20年たって、彼女は神の語りかけを聞く。それは、ものみの塔が説くエホバ神ではなく、本来被造物の中に共在する絶対的な神である。彼女は、信仰を離れても、「1Q84」の世界を通して神に出会い、自分が孤独ではないことを悟るのである。

 

テキスト15221頁)

私はなぜあのとき、王国の話なんてしたのだろう、と青豆は不思議に思う。なぜ自分が信じてもいない王国の話なんて急に持ち出したのだろう?それからほどなくしてあゆみは死んだ。

それを口にしたとき、私はおそらく「証人会」の人々が信じているのとは違うかたちの「王国」を頭に思い描いていたはずだ。たぶんもっと個人的な王国を。だからこそその言葉は自然に口から出てき。でも私はどんな王国を信じているのだろう?世界が消滅したあとにどんな「王国」が到来すると私は考えているのだろう?

 

青豆は、かつて友達のあゆみと共に飲みに行ったとき、王国の話をしたことを思いだす。王国など自分は信じていないはずなのに、無意識のうちに王国の話が出てしまう。これは、物心ついたときから育まれていた信仰心、あるいは組織の教えが純化された形で彼女の中に残っていたということである。

ものみの塔組織を脱会したエホバの証人たちの中に、かつてのカルト体験を聖書の本当の神にたどり着くために必要な道程だったと語る人が大勢いる。彼らは、これが自分にとって必要な、大切な道だったと述懐する。カルト体験はある人にとっては真理に至る過程で通らねばならなかったのかも知れない。そんな風にカルト体験を整理できる人は、本当に幸せである。

 

テキスト16227頁)

青豆はそれについて考える。「私も小さい時に両親に捨てられた人間だから、自分の子供を持つのがどういうことなのか予測できない。正しいモデルがないから」

 

青豆は、自分が母親になろうとしているとき、自分の母はモデルにはならないと気づく。その理由を、「私は小さい時に両親に捨てられた人間だから」と述べている。両親に捨てられた、この言葉は胸を突き刺す。子供を捨てる両親など本当はいない。でも、カルト宗教は本当にそう思わせるような親子関係を生まれさせてしまうのである。私は何百組もそういう家族に出会ってきた。

 

テキスト17270-71頁)

あるとき冷たい風に吹かれて公園を監視しながら、青豆は自分が神を信じていることに気づく。唐突にその事実を発見する。まるで足の裏が柔らかな泥の底に囲い地盤を見出すように。それは不可解な感覚であり、予想もしなかった認識だ。彼女は物心ついて以来、神なるものを憎み続けてきた。より正確に表現すれば、神と自分とのあいだに介在する人々やシステムを拒絶してきた。長い歳月、そのような人々やシステムは彼女にとって神とおおむね同義だった。彼らを憎むことはそのまま神を憎むことでもあった。

生まれ落ちたときから、彼らは青豆のまわりにいた。神の名の下に彼女を支配し、彼女に命令し、彼女を追い詰めた。神の名の下にすべての時間と自由を彼女から奪い、その心に重い伽をはめた。彼らは神の優しさを説いたが、それに倍して神の怒りと非寛容を説いた。青豆は十一歳のときに意を決して、ようやくそんな世界から抜け出すことができた。しかしそのために多くのものごとを犠牲にしなくてはならなかった。

もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない。青豆はよくそう思った。絶え間のない怒りや怯えに心を苛まれることなく、ごく当たり前の子供として数多くの美しい思い出をつくることができたはずだ。そして今ある私の人生は、今あるよりずっと前向きで心安らかで、充実したものになっていただろう。

それでも青豆は下腹に手のひらをあて、プラスチック板の隙間から無人の公園を眺めながら、心のいちばん底の部分で自分が神を信じていることに思い当たらないわけにはいかない。機械的にお祈りの文句を口にするとき、両手の指をひとつに組み合わせるとき、彼女は意識の外で神を信じていた。それは骨の髄に染み込んだ感覚であり、論理や感情では追い払えないものだ。憎しみや怒りによっても消し去れないものだ

でもそれは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簑奪され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる。

 

ものみの塔の信仰の問題点は、神と人の間に、統治体を中心とした組織が入り込んでくることである。カルト団体を抜け出て、本当の信仰に目覚めた青豆は、かつての宗教団体の最大の問題点を喝破している。「彼女は物心ついて以来、神なるものを憎み続けてきた。より正確に表現すれば、神と自分とのあいだに介在する人々やシステムを拒絶してきた。長い歳月、そのような人々やシステムは彼女にとって神とおおむね同義だった。彼らを憎むことはそのまま神を憎むことでもあった。」

ここにこそ、ものみの塔組織の最大の問題点が潜んでいる。エホバの証人をやめ、JWTCのクラスに出席するようになった元証人たちは、例外なくこの問題点を指摘する。ものみの塔の組織は、「神の名の下に彼女を支配し、彼女に命令し、彼女を追い詰めた。神の名の下にすべての時間と自由を彼女から奪い、その心に重い伽をはめた」のである。「彼らは神の優しさを説いたが、それに倍して神の怒りと非寛容を説いた」のである。

「もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない」そんな風に考えるのは、まことの信仰と対極にあるものだが、エホバの証人たちの世界である。むろん彼らは、全く気づかないのであるが。青豆は「絶え間のない怒りや怯えに心を苛まれることなく、ごく当たり前の子供として数多くの美しい思い出」をつくるような信仰を求めていたのである。本当の信仰であれば、「今ある私の人生は、今あるよりずっと前向きで心安らかで、充実したものになっていた」ことを期待してよかったはずである。

青豆は、自分が到達した神について、「彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簑奪され、その結果身につけたものだ」、と告白する。彼女が描く「姿かたちを持った神」、「白い服も着て」、「長い髭もはやして」いる神とは、まさにものみの塔の雑誌や書籍に出てくる絵に描かれた神である。彼女は、そんな神は神ではないという。本当の神は、「教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない何も与えず何も奪わない」という神だという。

さらに青豆は、「昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」と述べている。この神概念は、あるいは村上自身がもっている神概念のような気がする。私は、このような神概念は聖書の神とはいささか異なるとは思うが、現実の人間世界に共に重荷を負い、共に痛みを担ってくださる神に通じていると思う。

 

テキスト18272頁)

「さきがけ」のリーダーがその死の直前に口にした言葉を、青豆は折に触れて思い出す。その太いバリトンの声を彼女は忘れることができない。彼の首の後ろに刺し込んだ針の感触が忘れられないのと同じように。

光があるところには影がなくてはならず、影のあるところには光がなくてはならない光のない影はなく、また影のない光はない。リトル・ピープルが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ末明のものであったころから。

神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面か?

青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認めると言う必要があるということだ。

青豆は神について思いを巡らせる。神はかたちを持たず、同時にどんなかたちをもとることができる。

 

青豆は、自分のお腹の子供が守られる必要性を痛感する。そのためには「どこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認めると言う必要がある」と告白する。その神とは、「かたちを持たず、同時にどんなかたちをもとることができる」お方だという。それはむろん、カルト団体が教える神ではなく、聖書の神につうじるものである。

 

テキスト19401頁)

青豆は生まれてこの方、自分を美しいと思ったことがなかった。小さな頃から誰かに美しいと言われたことも一度もない。母親は彼女をむしろ醜い子供として扱った。「もっとお前の器量がよければ」というのが母親の口癖だった。もっと青豆の器量がよかったら、もっと愛らしい見かけの子供であったなら、より多くの信者を勧誘できるはずなのにという意味だ。だから青豆は小さい頃からできるだけ鏡を見ないようにしていた。必要に応じて短く鏡の前に立ち、いくつかの細部を手早く事務的に点検するそれが彼女の習慣になった。

 

青豆の母親は、「もっと青豆の器量がよかったら、もっと愛らしい見かけの子供であったなら、より多くの信者を勧誘できるはずなのに」と考えていた。何という母親だろう。全く悲しくなる。ところが、それがカルトの現実である。カルト団体は、ごく普通の人をいとも簡単にそのような非情な人間に作り変えてしまうのである。たくさんのエホバの証人と出会って、彼らの本来持っていたものが凍結され、組織が植え付けようとする仮面をかぶってしまっていることに驚く。エホバの証人になった奥さんたちに対するご主人の心配は、このように仮面をかぶらされている姿への心配であり、怒りなのである。

 

テキスト20595頁)

これからどうすればいいのか、どこに向かえばいいのか、彼女には本当にわからなかった。非常階段を登り切ったところで青豆の役目は終了していた。考えを巡らせたり、ことの正否を判断するためのエネルギーは使い果たされていた。彼女の中にはもはや一滴の燃料も残ってはいない。あとのことはほかの何かの力に任せるしかない。

天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。

祈りの文句は、口からそのまま自然に出てくる。条件反射に近いものだ。考える必要もない。その言葉のひとつひとつは何の意味も持たない。それらの文言は、今となってはただ音の響きであり、記号の羅列に過ぎない。しかしその祈りを機械的に唱えながら、彼女は何かしら不可思議な気持ちになる。敬虔な気持ちとさえ言っていいかもしれない。「奥の方で何かがそっと彼女の心を打つ。たとえどんなことがあったにせよ、自分というものを損なわずに済んでよかった。彼女はそう思う。私が私自身としてここに━ここがたとえどこであれ━いることができてよかったと思う。

あなたの王国が私たちにもたらされますように、と青豆はもう一度声に出して繰り返す。小学校の給食の前にそうしたように。それが何を意味するのであれ、彼女は心からそう望む。あなたの王国が私たちにもたらされますように。

天吾は青豆の髪を指で杭くように撫でる。

 

ここは、この小説の最後の部分である。この最後の部分で青豆は、祈りの一節を口ずさみ、彼女なりのまことの信仰に到達する。子供のころ教えられた祈りの言葉の一つ一つには大きな意味を見出すわけではないが、その祈りが一番言いたい「王国」について、彼女なりの信仰に導かれる。

 

最後に

小説「1Q84」は、天吾と青豆の二人の愛が20年を経て、「1Q84」の世界を通して、この現実の「1984」の世界で実現していくことをもって閉じている。

村上が描くこの「1Q84」の世界は、人間の常識や理性を超えたところで現実を動かし、さまざまなことを運んでいる別の世界である。それは、人間の内面奥深くに宿っている無意識という意識の世界かも知れないし、時代の風潮をもたらし人間や共同体を突き動かしていくデモーニッシュな力かも知れない。カルトの世界のように人の精神の自由を奪いその人の人生をとことんまで変えてしまうような暴力的な力なのかも知れない。あるいはそれとは全く逆の人々が渇望し誰でもが求めている本来あるべき理想郷、ユートピアな世界かも知れない。さらには、信仰の世界、神の世界のようなものなのかも知れない。それは簡単に善とか悪という言葉で割り切ることのできないものなのだと思う。

 

私は私なりに、村上春樹を離れてしまうけれど、この小説が問題提起している「『1Q84』の世界を通して現実の『1984』の世界を眺め直してみる」ことをしてみたいと思う。それはカルト宗教が関わる「1Q84」の世界ではなく、イエスが説く「1Q84」の世界である。それは青豆が最終的に到達する信仰の世界に酷似しているが、もう少しヒューマニズムを離れ、イエスの教えに拘束されている。

イエスがその生涯をかけて説き続けたメッセージは、「神の国」だった。この「神の国」の概念は実は大変奥深く豊かなものであって、私自身も把握しきれたと思っていない。それはいろいろな要素を含んでおり、一義的なものではないという点で、どこか村上の言う「1Q84」の世界に通じるものがあると思う。

キリスト教の世界では、20世紀の半ばまでは、「神の国」を遠い(あるいは間近かに迫っていると考える人も多い)将来に到来するものと考えられてきた。ところが1900年も50年代になると、イギリスの新約聖書研究家C.H.ドッド教授が、聖書の終末論を「実現した終末論(realized eschatology)」と定義し、「神の国」はイエスの到来と共にこの世界に実現していると主張した。さらに1970年代の初め、E.ラッド教授は、「already but not yet(すでに、しかし、いまだ)」という言葉を流行させ、「神の国」は、イエスの到来と共にすでにこの世界に存在しているが、しかし、いまだ完成には至っていない、と説いた。ラッドによれば、2000年前のイエスの十字架と復活が「神の国」をこの世界にもたらし、近未来のイエスの再臨が「神の国」を完成させるのである。

イエスが説かれた「神の国」は、今のこの世界の真只中に現臨し、この世界のすべてを「神の国」に変革していく。私は、この「神の国」を村上の小説に出てくる「1Q84」の世界にアナロギアさせたいのである。小説の「1Q84」の世界と現実の「1984」の世界は二つのパラレルワールドで、ところどころで微妙に交錯する。イエスの説く「神の国」は、この世界に殴り込みをかけ、この世界そのものを大きく変革してしまうというのだから、全く別物であるのだが、「1Q84」の世界に出合って、「1984」の世界で新たに生き直すと言うモチーフは、イエスの「神の国」にも当てはまると思う。

青豆は幼少のころからものみの塔の「王国」を刷り込まれていたのだが、「1Q84」の世界に出会って、それが「青豆にとっての神」として開花する。もしこのことが小説「1Q84」において村上が述べたかった一つのテーマであるとすれば、「1Q84」という小説は、JWTCが本来目指している「ものみの塔の『王国』からイエスの『神の国』へ」という運動の最も強力な援軍ということになる。