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(2014年12月20日放送)
特別オンエア中!
体験談『私が本当に捕われていたのは、エホバの証人ではなく…』

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「エホバの証人2世が自然消滅を経てキリストへ」  M.K


 私が4歳のとき、我が家を訪問してきた姉妹を通して、母は研究を始めました。子供である私をどう育てていいか悩んでいた母は「幸せな家族生活の秘訣を学べる」ことに心を惹かれたようです。1983年、私が6歳のとき、両親はバプテスマを受けてエホバの証人になりました。翌年、私は小学校入学と同時に伝道者になり、ひとりで伝道に出かけるようになりました。幼い私は、自分が大人になる頃までには楽園が来るんだと無邪気に信じていました。 小学校は、エホバの証人として忠誠の試練の連続でした。校歌を歌えないので、始業式も終業式もとても憂鬱でした。七夕・クリスマス・誕生日・・・祝い事はことごとく参加できないと先生に申告しなければなりませんでした。当時は分かっていませんでしたが、私はADHD(注意欠陥・多動性障害)の傾向があったようで、「場の空気を読む」とか、友達と合わせることがもともと苦手でした。ただでさえも仲間外れにされやすい特質を持っている上に、エホバの証人として皆と違うことばかりして目立ち、先生を当惑させることばかりだったので、クラスでも浮いていました。しんどくなって保健室で寝込むこともしばしばで、死にたいとさえ思ったときもありました。会衆でも同年代の子供と話も合わず、よく年配の姉妹を訪ねてはお話したりしていました。


 


 1990年、小学校6年のときにバプテスマを受けました。 中学校に入ってから、環境が大きく変わりました。担任の先生がとても理解のある方で、私の特性を評価してくれました。それまでは「学校もサタンの支配下である『この世』で、僕は迫害されている」と思い込んでいましたが、徐々に見方が変わってきました。自分を理解してくれる、受け入れてくれる人がいることを知り、自分は世の中で生きていく意味があるのではないかと思うようになりました。また、思春期になり、好きな人ができたことも、大きな転機のひとつでした。中学生のときに好きになった子とは親の反対にあい、また引越に伴う転校によって別れざるをえませんでした。とてもつらい思いをして別れたので、高校に入ってからは、親の前と学校とでは違う自分を演じ、好きな子ができても親には隠していました。高校生のころには自分の良心もだいぶ柔軟になり、騎馬戦をしたり、選手宣誓をしたりもしていました。スピーチコンテストで全国大会に出場したり、複数の資格を取得して表彰されたりと、それなりに充実した高校生活を送っていました。高校時代に取った資格のひとつが「情報処理技術者」で、その資格のおかげでシステムエンジニアとして就職できました。資格試験を受けてみないかと勧めてくれた先生には感謝しています。



 


 高校卒業後、パートの仕事をしながら正規開拓奉仕を始めました。しかし、家の人の反応は冷たく、落胆させられることばかりでした。「こうやって伝道する意味などあるのだろうか」と悩むことが増えてきました。幼い頃は「もうすぐ楽園が来る!」という希望があったので、それを伝えたいという熱意に燃えて伝道していましたが、そんな熱意はすっかり冷めていました。むしろ、期待していたハルマゲドンが来なかったことに落胆していました。 まもなく奉仕の僕に任命されますが、長老だった父と主宰監督との深刻な対立に巻き込まれ、私は精神的にボロボロになっていきました。 必要の大きな会衆へ移動するという名目で京都市内の会衆に引っ越してひとり暮らしを始め、ようやく父に振り回されずに落ち着いた生活を始めることができました。ところが、それまでずっと蓄積していた精神的疲労がどっとあふれたのか、うつになってしまい、数ヶ月寝込んでしまい、新聞配達のアルバイトも辞めざるを得なくなりました。開拓奉仕も降りました。自分にとっては「JWエリートコース」からの脱落、人生の指針の喪失を意味するものでしたが、心のどこかでほっとした気持ちもありました。しばらくは会衆で割り当てを果たしていましたが、そのうち集会に出席しているのさえ苦痛になり、集会にも行かなくなりました。こうして、20代前半に自然消滅し、世俗の仕事に没頭するようになりました。実家の会衆での問題を目にして組織に対する信頼を失い、もう組織とかかわるのはこりごりだと思ってはいましたが、エホバの証人の教理が間違いだとはまだ気づいていませんでした。でも、私はもうエホバの証人としては続けていけない、私は滅ぼされてもいい、というような刹那的な思いでした。


 


 一方で、ローマ8:35−39にあるとおり、「どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」という確信も持っていました。神は僕をお見捨てにはならない、心のどこかにそんな不思議な確信がありました。今から思えば、聖霊さまが僕と共にいてくださり、導いてくださっていたように思います。 うつを抱えたままIT企業に勤め、体調が不安定なために休みがちだったり、仕事を覚えるのに時間がかかったり、苦しい時期もありましたが、数年かかって正社員になれました。20代半ばごろからネットを通じて元JW2世とも知り合うようになり、お互いの経験を語り合ったり、交流を通して「ひとりじゃない。戦友はたくさんいるんだ。自分も頑張ろう」と励まされました。 28歳のとき、JWである母の反対を押し切って、会社の同僚と結婚しました。社会人として仕事に就き、家庭を持てたことは、私にとって自信になりました。2世として遠回りをしましたが、ようやく人並みの生活ができる、と思いました。しかし、幸せは長くは続きませんでした。過密な仕事で体調を壊し、うつが再発してしまいました。また、時を前後して妻もうつになり、夫婦共倒れになってしまいました。自分にとっての生きる指針がなく、不安でした。妻は創価学会3世でしたが、妻と一緒にお題目を唱える気にもなれませんでした。やはり私は神に祈り、聖書の導きが必要だと思うようになりました。そこで教会を訪ねる決心をしました。今から3年前、2008年冬、インターネットで検索した情報をもとに、実家近くの宇治バプテストキリスト教会を訪ねました。


 


 出迎えてくださった小出牧師夫人に、私の2世としての生い立ちを話すと、涙を流して「今まで大変だったわね」と言ってくださいました。それから、三位一体の神について、罪と救いについて、何度か学びの場を設けていただきました。 その後、近所の教会に通い始めましたが、その教会の牧師はエホバの証人についてあまり理解がなく、私が聖餐式にあずかれなかったことについて明確な説明をしてくれなかったので、私はつまずいてしまいました。 数ヶ月後、ホープチャペルなんばで開かれた進藤龍也牧師の講演会に参加し、とても感動しました。その後、ホープチャペルなんばに交わるようになった私は、2009年6月21日、須磨海岸で「父と子と聖霊の名において」洗礼を受けました。 ただ、牧師も信徒も大半が英語を主にしていたため、私が日本語で個人的な相談をしたかったのですが牧師が米国人であまり日本語が得意ではなかったため、悩んだ末、自宅近くにある大阪城東キリスト教会に転会することにしました。現在も同教会に交わっています。 洗礼を受けた後も、試練の連続でした。去年離婚し、再就職したのですが体調不良のために数ヶ月で辞めざるを得なくなり、依然として精神的に不安定な状態が続いています。心の平穏さを取り戻し、マインドコントロールから抜け出すには、まだ時間がかかりそうです。しかし、どんなときも主イエスさまが私と共におられ、聖霊が導いてくださるという確信は、私が生きていくための原動力となっています。今はまだ自分を建て直すので精一杯ですが、いつか回復して、自分が他の元JWをサポートしたいと願っています。


 


私(Joel)のブログ http://ameblo.jp/exjw/

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