2018年1月31日の授業から

今日も寒さ厳しい一日でした。礼拝では、Ⅰペテロ2章9-10節より「キリスト者が王なる祭司」であるとのメッセージが取り次がれました。この箇所に出てくる「宝の民」、「王なる祭司」、「聖なる国民」などのタイトル は、いずれも出エジプト19章6節に見られるもので、イスラエルに対して使われています。それがクリスチャンに対しても使われているのは、「イスラエルと教会とは本質的に変わらない存在である」ということです。しかもそれこそが、キリストの福音によって回復された人間観なのですが、福音派キリスト教が説くクリスチャン観は神の律法を守ることのできない「全く堕落した存在であり、とても低い人間観」です。このような低い人間観は、アウグスティヌスをはじめとする「西欧の神学者たち(カトリック、プロテスタントを含む)が解釈したパウロの人間観で、それは東方の神学には無縁だった」という説明には驚きました。

その後の授業では、ものみの塔が教える終末理解とキリスト教が教える終末思想とはどのように違うのかという質問を、クラスの皆で考えました。キリスト教福音派の中でも、「霊魂不滅」、「永遠に燃える地獄での苦しみ」、「 アダムや原罪の理解」、 「最後の審判の様相」、「キリストによる救いと天国」、「再臨の時の状況」などについての聖書の読み方には多様性がある、ということでした。そのような違いがあっても、「聖書のグランドストーリー的理解こそが、神が人に知らせたい福音」であると分かるなら、上記のような問題に対してもはっきりした見解(確信)をもつことができるという解説には、とても説得力がありました。

組織の中に長く生きた者にとっては、自分の問題を深く考え、 自由に聖書を読みながら答えを模索できるのは特別すばらしいと感じています。ありがとうございました。