先日、90歳になる教会の信者さんが、地上での生涯に幕を閉じました。数ヶ月前から体調を崩されていたのですが、回復することはなく、最後の1週間は看取りの時を御家族と一緒に過ごす機会が与えられました。その後、前夜式・葬儀・火葬・納骨と、一気に時は進んでいったのですが、葬りの全ての式を終えた後に、私の心に残ったのは、敬愛する仲間を失った悲しさと寂しさでした。牧師となってから2年間、今回が4回目の葬儀でしたが、どの葬儀の後にも今回と同じような感情が残ります。
聖書には、「死者の復活」という希望について描かれております。神を信じ、信仰を告白した者が得ることのできる希望です。エホバの証人もかなり独特ではありますが、復活の希望を抱いております。聖書の告げる復活の希望は、喜びに満ちた将来の出来事ではありますが、愛する仲間を失った直後は、やはり悲しく寂しいものなのではないでしょうか。私も一人のクリスチャンとして、復活の希望を信じています。しかし、「復活の希望があるのだから、悲しむな、メソメソするな」と性急に自己納得したり、ご遺族に対して告げるつもりは、少しもありません。悲しみは悲しみとして、寂しさは寂しさとして、心の内に起きる気持ちというものを大切にしたいのです。
愛する者を失う悲しみと寂しさ。この感情は、エホバの証人であることを放棄した時に起きる感情と全く同じなのではないだろうか。それは、エホバの証人を辞めた多くの方の話を聞いた時、そして何よりも私自身がエホバの証人を辞めた後の出来事を思い起こした時に、確かに感じることなのです。
私自身の話になりますが、11年前、当時属していた会衆の長老や、周りのエホバの証人の反対と非難から逃げるように、私は上京し、大学に入学しました。エホバの証人であることに窮屈さを感じ、脅迫的な信仰のあり方に嫌気がさした結果、大学入学後はエホバの証人との関わりを一切絶ったのです。本来、嫌なものから離れたら、気分が晴れるはずなのですが、私の場合、その後の数年間は実に惨憺たる毎日を過ごしました。自らの心にポッカリと穴が空いてしまったのです。その穴埋め作業を一生懸命行おうとするのですが、何で埋めれば良いのか、皆目見当も付かなかったのです。まさに徒労する毎日でした。振り返ってみれば、私にとっては、嫌だったはずのエホバの証人という存在が、実は「愛おしい恋人」であり、その恋人を失った時の悲しみや寂しさからなかなか抜け出せなかったのが、穴埋め作業を困難なものにしていたのではないか、と思い起こします。
数年前、精神科医であるキューブラ・ロスの著書である『死ぬ瞬間』という本に出会いました。その本には「死を受容する過程」について、一つのモデルが描かれているのですが、その過程は、私のエホバの証人を辞めた後の過程とよく似ていることに気づいたのです。
キューブラ・ロスによると、死を受容する過程は5段階あり、①否認、②怒り、③依存、④抑うつ、⑤受容、の各過程をたどると述べています。この過程を私の過去に当てはめるならば、①どのように自分に空いた穴を埋めて良いのか分からなく徒労した日々、②「反エホバ」として怒りと正義感のうちに駆け回った日々、③エホバの証人であったことの代償として教会の中でエホバの証人さながらの振る舞いをしていた日々、④エホバの証人であったことの呪縛から精神的に訣別しなければならない(いわゆる「死」)と知って落ちこんだ日々、⑤エホバの証人であったことへの呪縛から解放された時、という風に自分史をなぞり合わせることができ、心癒されたのを覚えています(それが具体的には何 だったのかは、紙面の都合もありますので、ここでは割愛したいと思います)。勿論、この5段階の過程は絶対的なものではありませんので、全てのエホバの証人が脱会した後に同じ過程をたどるわけではありません
しかしながら、大切なことは、「エホバの証人を脱会する」という作業に携わろうとする時、私たちが抱くべき関心の中心は、エホバの証人である(あった)本人そのものに対してであり、愛して止まない恋人(エホバの証人であることのアイデンティティ・組織・仲間)との別離を経験したことによる「悲しみと寂しさ」に、如何に丁寧に寄り添うことができるかに全てが懸かっているのではないかと思うのです。安直な言い方をすれば、周りにいる私たちが、「エホバの証人以上の恋人となり得るか」ということだと思います。
上記の「死を受容する過程」にもあるように、死の受容に至るには、怒りもあれば依存もあり、抑うつもある、つまり、どちらかといえば正常な状態とは言いがたい姿を信者であった当人がさらけ出すのを周りは見ることになると思います。周りはその状態に焦りや怒りを生じることもあると思います。しかし、当人がそのような状態を見せるということは、かつての健康な状態を「取り戻す喜び」への過程であって、その状態を温かく見守る周りの愛情に支えられて、信者であった本人が、最終的に喜びを見つけることが可能になるのだと、私自身が得た経験からも感じることができるのです。私がエホバの証人を辞めて11年、実に多くの支えがありました。JWTCもその大きな支えの一つであると信じています。奇人変人な私を温かく受け止めて下さった、JWTCの皆さんに心から感謝を申し上げるばかりです。そして、現在は、神様に祈り、聖書の言葉に聴く毎日が、牧師という職を通して与えられていることに、心の底から喜んでいます。私は、ものみの塔組織の存在を好意的に捉えていません。非常に問題であると思っております。そのような問題意識から起きるエホバの証人対策は、私のライフワークであると思っています。しかし実は、エホバの証人の日々があったからこそ、今の自分があるのだという意味で言えば、苦しかったエホバの証人の日々に感謝すらしています。今は苦しくとも、必ず喜ぶことの出来る日がやって来る。そのことを信じつつ、この問題に取り組んでいくことができたらというのが、私の現在の願いです。
最後に、エホバの証人もしばしば用いている聖書の言葉、しかし、今の私には最高の愛唱聖句である御言葉をもって、この文章を閉じたいと思います。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一 15章57~58節)
寄居の移動教室に参加して
移動教室に参加したのは、今回(寄居)が2回目です。元JWでもなく、家族にJWがいるわけでもない普通のクリスチャンです。そんな私が毎週お茶の水に通い、移動教室にまで来てしまいました。「なぜ?」と、自分でも思うことがあります。月に2、3回自宅に来てくれるJWの方との対話に役に立つから?いいえ、それだけではありません。私は、JWTCの学びから、(一言では言えませんが)人間として大切なことを、たくさん教えてもらっています。だいぶ前のテープの中で、先生が「結局は、本物を提供していくしかない。エホバの証人は、真理を求めている人たちなのだから。」と話していたのを覚えています。私がJWTCに惹かれるのもそこなのだと思います。
今回も何人かの体験談をお聞きしました。「もし、あれが私だったら・・あれがわたしの息子だったら・・・」と、想像しながら聞きました。聞きながら、神のことばを悪用して人の心を支配していく、このことの罪深さを、改めて思いました。一人でも多くの方が、聖書の神様に出会うことが出来ますようにと願わされました。